「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳49 9章  知韓派日本人の壁;知韓と嫌韓の間

雨森(芳洲)は釜山倭館に長期滞在して慶尚道方言を駆使するほど朝鮮語が巧みだ。
新井(白石)は朝鮮通信使から誓文を受け付けてから漢文に自信を持てた。
その二人のうち一人は朝鮮との善隣を強調する道を選び、もう一人は朝鮮を軽蔑し軽んじる道を選んだ。
韓国語の実力を誇って韓国に事々に食い下がって快感を覚えている黒田産経新聞支局長は二人のうちどちらに近いか。

9章―① 黒田勝弘、あなたはどういう人なのか

 産経新聞ソウル支局長兼論説委員、黒田勝弘が2005年「日本記者クラブ賞」授賞者に選ばれた。
日本記者クラブ総会で記念杯を受けて大喜びする姿が写されたのを見て筆者は彼が絶頂期に立っていると感じた。

 日本記者クラブが黒田を受賞者として選んだ理由を、産経新聞国際面に毎週土曜日連載しているコラム「ソウルからヨボセヨ(日本語でもしもし;訳者注)」を挙げた。

 「さわやかな余裕のある筆致で読者に韓国に対する関心を膨らませた。縁や絆が深まるように面白いという立ち位置で韓国の政治、経済、だけでなく文化、趣味、映画など、幅広い話題で近いが遠い、遠いが近い、隣の韓国の全体像に肉薄していた。」(産経新聞、2005,4,20)

 実家である産経新聞も黒田本人の授賞の所感をこのように伝えた。
「反日で振動している韓国、日本人拉致問題と核問題等不可解な北韓報道でも分かるように、日本の記者にとって韓国は限りなく興味深く刺激的だ。
これからもこの地域と付き合う方法などを可能な限り多様に多角的に伝えたい。」

 筆者も実は初めは黒田支局長が連載するコラムを興味深く読んでいた方だ。
しかし、日本は文明開化国、韓国は野蛮で遅れている国という基本企画を設定して韓国と韓国人を事々にあら捜しをするために意図的にこのコラムを連載していると悟ってコラムを読むことを即刻中断した。

 例えば日本記者クラブもこのコラムが両国の友好を進めるのに寄与したために黒田支局長に賞を贈呈したのではない。
ただ日本の読者に関心を膨らませるためだ。
後で述べるが、黒田支局長も面白さで退屈しのぎにこのコラムを執筆しているだけだ。

 黒田支局長は1964年京都大学経済学部を卒業し京都通信に入社した。1989年産経新聞にスカウトされ、現在17年目のソウル支局長を務めている。延世大学語学堂留学、京都通信ソウル特派員時代を合わせるとソウル生活が実に23年目だ。
所在なく、退屈で飽き飽きした黒田のソウル生活を慰めてくれることは前のコラム執筆時間以外にも韓日間の摩擦が起きる時だ。

 例えば、島根県議会が竹島の日 条例を通過させ、ソウルの街が騒がしくなると、黒田支局長は産経新聞の「経度 緯度」というコラムに「日本を過剰に意識しなくなるのはいつ」という記事を載せて韓国人の日本に対する意識過剰を皮肉った。(2005,3,26)
彼が言うには「日本人は韓国を別に意識していないが、韓国人は日本に対して絶ち切れない闘志の火を燃やし、毎日のように日本、日本と言う。」なのだ。
黒田はそうしながら「韓国はまだ日本から独立していないから独立運動をしているのだ。」と皮肉った。

 しかし、黒田様!我が国の人たちが「日本、日本」といえば、日本人はなぜ今「北韓、北韓」というのか?

韓国に長く住んでみると、筆者より本国事情をよく知らないようだが、いま日本のテレビをつけてみよ。
朝から晩まで北韓ニュース一色だ。
北韓が朝鮮中央テレビの映像を無断で使用しているとして、朝総連を通じて1分当たり500ドルを支払えと言い、集金しているほどだ。
日本テレビ放送局らの映像使用料を合わせると年間5億ドルは軽く超えるということが北韓側の主張だ。

 金正日委員長が日本人拉致を認めたのは2002年9月だ。
その後、続いて4年目、朝から晩まで北韓と関連する映像が噴水のように出ている様子を見守ってみると筆者もここが日本なのか北韓なのか錯覚に陥るほどだ。
なぜ日本のテレビは我々なら見つめることもしないつまらない映像を毎日繰り返して放映しているのか?
それも無断で。
それは二言する必要もなく日本の被害者だという事実を強調したいからだ。
しかし、北韓が認めた拉致被害者は13名に過ぎない。
韓国の植民統治被害者が数百万という事実を考えれば、申し訳ない話だがほんの少しだ。
日本はただ13名に過ぎない拉致被害問題を毎日のように論じて、数百万名が植民統治被害を強要された我々はひとことでも言及してはだめだという法がどこにあるのか?

 黒田様!
日本のテレビ放送局が毎日のように北韓、北韓と言っているが、そうであれば日本は今北韓に対して独立運動を始めているのか?
日本も北韓がよくて毎日のように北韓北韓と言っているのではないだろう。
同じ理屈で我々も日本が好きで、日本、日本というのではない。
日帝植民統治の残酷な犠牲者だったためにそうなのだ。

 よく知られているように黒田支局長は韓国言論が、日本軍が独立軍を飼い葉切りで処刑している写真を大々的に報道すると、中国の匪賊を処刑する写真だと反論して日本のピューリツァー賞といわれる「ボーン上賞」を1992年に受賞したこともあった。
2005年には日本記者クラブ賞に続いて日本文学振興会が授与する菊池寛賞を受賞した。
そんな理由で彼は日本では広く知られた「第一級として知られている言論人」だ。
特に韓国に噛みついて取りすがることを生業にしている嫌韓派日本人にとっては最も尊敬する存在だ。
そんな黒田が日本記者クラブ賞という勲章がもう一つ付いたので「特級に当たる言論人」として格上げされたわけだ。

 ならば黒田支局長に聞きたい。
我が国が嫌いなら日本に帰るのであって、なぜ23年間も閉じこもっていて我々に事々に噛みつき取りすがって来たのか?
実は黒田氏自身も産経新聞に連載して来た「ソウルからヨボセヨ」のコラムをまとめた第1集《ソウル烈烈》の世評で韓国生活に対する嫌気を率直に打ち明けている。(徳間書店、1993)

「私の韓国滞在は通算10年になるが、今も遠近感情、異質感情に迷っている。
楽しみながらも驚いて怒り、疲れてしまう。
しかし、まだソウルを離れられない。
韓国がもたらす刺激が今もなお私の好奇心を揺さぶるからだ。
(中略)ソウル生活は年齢とともに疲労がたまっているが、私にはそれでもソウルが面白い。」

 彼はまたコラム第二集《韓国は変わったか》という本の後記でも韓国生活に飽きたことをこのように告白している。(徳間書店、2004)

 「私の韓国体験は1970年代初めから30年以上になるが、そのうち20年以上を韓国で生活していた。
戦後の日本記者としては、おそらく最長記録だろう。
日韓双方の親しい人たちから『何が面白くてそんなに長くいるのか』とよく聞かれたが、答えは今書いたとおりだ。
この地は日本人記者にとっては限りなく刺激的で退屈なことがないとても面白い対象だ。
その面白さのために離れられないのだ。」

 面白いから長く留まったって!
韓国は黒田支局長が退屈な時遊んでくれる何かおもちゃのようなものなのか?
二言するまでもなく、黒田の面白みは我々をくちゃくちゃ噛む面白さなのだ。

 わが国の諺に「僧が嫌なら、寺を出る。」という話がある。
誰よりも我が国の言葉をよく知っている黒田が小学生も知っているこの諺を知らないはずがない。
しかし、2001年の新しい歴史教科書騒ぎの時のように産経新聞のソウル支局を閉鎖する運動を広げて黒田支局長を強制的に追放すれば、問題がもっとこじれる。
彼が帰国した後に反韓の媒体を総動員して今より十倍、百倍ぐらいより激しく我々に噛みつき、食い下がることが火を見るように明らかだからだ。また、今のように民主化、国際化した時代に外国記者を強制的に追放するのは体面が非常によくない。
それではどうすればよいのだろうか?

         

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