黒田と重なるイメージのもう一人の人物は福沢諭吉の指示を受けて、京城から漢城旬報の発行に関わった井上角五郎だ。
福沢は壬午の軍乱後、謝罪使として入ったパクヨンホの要請を受けて、朝鮮の新聞発行と学校教育を支援する弟子7名を朝鮮に派遣した。
その中の一人である井上は外衙門顧問、博文局主任を経て、韓国最初の近代新聞漢城旬報を創刊(1883年10月30日)し、主管となった。
福沢が井上を朝鮮に派遣して新聞を発行しようとしたのは開化派政権即ち親日派政権を樹立しようとすれば、まず世論工作が重要だと考えたためだ。
そんな意図で創刊された漢城旬報は当然「反清親日」を論じる論説と記事が主従を成していた。
例えば漢城旬報は1884年1月30日に発行された第10号で清軍の非行を非難した「華兵犯罪」という題目の記事を報道した。
事情というのは即ち、京城のある薬屋で薬代のためにけんかになって、清軍兵士が殺人を犯したということだ。
清軍はこの記事が出てから2か月半が過ぎた4月に朝鮮政府に対して「虚偽があってはならないので、確実な証拠がなく、罪をかぶせてはだめだ。」という公文書を送って厳重に抗議した。
これによって、井上は韓国最初の筆禍事件に連座して5月ごろ日本に帰国しなければならなかった。
井上は約3か月後の8月上旬に漢城旬報を清国に奪われるなという井上馨(1835~1915)外相の指示を受けて再び韓国へ渡って来た。
しかし、井上は漢城旬報の発行を主管することよりも金玉均らが12月に起こした政変を支援することがもっと急を要した。
《井上角五郎先生伝》によれば井上が再訪韓する前に福沢と井上、金玉均、朴泳孝(パクヨンヒョ)の間には連絡に使用する暗号まで準備されていた。
京城で大事を起こす気分が高まっていたことを井上の便りで知った福沢は時事新報に朝鮮について言及するのは極力自制した。
井上は事件当日独立党から郵政局事件が失敗したという連絡を受けて「国王を連れだせばいい。」と指示した後、爆薬担当者を連れて昌徳宮に向かって急いで駆け付けた。
この時高宗が昌徳宮から景福宮に居所を移すことを許可したのはこの者たちが爆発させた爆薬のためであったという。
井上は甲申政変が失敗すると仁川へ逃亡し、金玉均らを千歳丸船倉に隠して日本へ連れて行った。
彼は発行が中断している漢城旬報をハングルと漢文を混ぜた文で再発行するために1885年12月東京で購入したハングル活字と印刷機を船に積んで再び訪韓した。
ハングル活字は福沢が私財をはたいて東京の築地活版所で鋳造したものだ。
井上は京城で再び外衙門顧問に委嘱された。
甲申政変に深く関与した彼が再び顧問に委嘱されえたのは新政権のキムホンジップとキムユンシクの信頼を受けていたためだ。
一方井上は廃刊した漢城旬報の代わりとしてハングル、漢字混用の漢城週報を1886年1月25日に発刊した。
しかし、政治状況が混乱して、彼はその年の11月下旬に再び日本へ帰国しなければならなかった。
井上は帰国後、大阪事件(日本の自由党急進派たちが金玉均を推戴して朝鮮の事大党を転覆しようという陰謀を企んだこと。1885年11月)に関与した嫌疑をかけられて警察の監視を受けた。
結局彼は甲申政変の顛末を記録した《朝鮮内乱顛末書》事件で逮捕され、重禁固刑5か月を宣告されて、罰金三十万円が賦課された。
また、福沢も警察の家宅捜索を受けて裁判に参考人として呼びだされ、長時間審問を受けたが、井上が福沢の関与を頑強に否認したことによって無罪放免となった。
しかし、井上は後日、甲申政変に使用した刀剣、爆薬類は福沢を通して入手したと明らかにした。
このように見れば、福沢が総監督を受け持ってシナリオを書き、主演した俳優(金玉均と朴泳孝)を選び演技を教えて道具を選定し上演させた政変劇が正に甲申政変だ。
甲申政変の助監督は勿論、弟子井上角五郎だ。《福沢諭吉と朝鮮》(彩流社、1997、132ページ)。
黒田支局長は隙さえあれば韓国と中国、ロシアの交流を警戒する記事を書いている。
例えば、ロシア太平洋艦隊が、日露戦争の時自爆した水兵の慰霊祭を行うため2004年2月仁川港を訪問した時のことだ。
黒田が当時書いた記事を読むとロシア艦隊がわが国を親善訪問しても、我々が日本を捨ててロシアに接近しているように映っている。
井上は120年前漢城旬報を通して朝鮮の世論を「反清、親日」へ誘導しようとして失敗した。
黒田支局長の記事も韓国世論を「反中、反露」に誘導することはおろか「反日、嫌日、棘日」感情で武装した韓国人を量産するだけだ。
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