「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳51 9章ー③黒田は新井白石の後裔なのか

 筆者が投げかけた「黒田勝弘、あなたは何者か?」に対する回答が来るとしてもこの本が出版された後に来るだろうから筆者なりにあらかじめ結論を引き出してしてみよう。
ある二人の日本人が黒田と重なって見えるからだ。
一人は江戸時代中期の儒学者新井白石だ。

 第7次朝鮮通信使(1682年)が日本を訪問した時のことだ。
新井は自分の詩文を書き綴った《陶精集、浪人生活をしながら書いた詩百篇》がどの程度の水準か知ってみたくて親しい知り合いに朝鮮通信使一行として来た文人の評価を受けようと頼んだ。
当時26歳の新井は下級官吏で朝鮮通信使使節を直接訪問する資格もなく、自分が書いた詩文にも自信がなかった。

 思いがけなく新井の詩集を読んでみた製述官成琬(ソンワン)は本人が訪ねてくれば喜んで序文を書いてやると約束した。
故に新井は成琬を訪ねて行き序文を書いてもらい、先生の文章を師と見なして、頭を上げることができなかった。 

 新井はそれから29年後6代将軍家宣(1662~1712)の政治顧問に出世した。
第8次朝鮮通信使(1711年)一行が日本を訪問した時は接待業務を総括しろという指示を受けた。
29年前には朝鮮通信使一行を遠い下端として仰ぎ見ていた新井が接待業務を総括、指揮するようになったとは、どれほど得意満面だったろう。

 新井は対馬に到着した朝鮮通信使製述官、イヒョン(李礥)に自分の詩集《白石詩草》に序文を書いてもらおうと雨森芳洲(1668~1755、対馬藩の朝鮮外交担当者)に依頼した。
その間、自身が磨きに磨いた詩文の水準が朝鮮と対等であることを朝鮮通信使たちに誇るためであった。
そんな事情も知らずに正史チョウテオク、副使イムスガン(任守幹)、従事官イバンオン(李邦彦)ら三使が論争し、新井の文が格調流麗であるという風に序文を書いてやった。
新井がこの序文を受け取ってみて自身の学識が朝鮮と対等であるという事実を確認したことは二言するまでもなく、江戸でチョウテオクに朝鮮を蔑視する態度を見せたことを見ると、彼らの不注意は並大抵のことではなかった。
新井は後で将軍家宣にまで見せながら自分の漢文の実力を自慢したという。

 新井はまた朝鮮通信使一行を歓待するために食前の音楽を能楽から雅楽に変えようと家宣に伝え実現させた。
能楽というのは平安時代に発祥した一種の民族芸能である猿楽から発展したとされ、雅楽は儒教思想に立脚した一種の祭祀音楽だ。
在日同胞歴史学者辛基秀は「高麗雅楽を我々も演奏できるということを朝鮮通信使たちに自慢する目的」で新井がわざわざ食前音楽を変更したのだろうと指摘している。(《朝鮮通信使の旅行日記》、PHP新書、2002)

 そうであった半面、新井は朝鮮通信使の接待を簡素化して朝鮮とは対等な関係を確立しなければならばいという報告書を家宣に上奏して、壬申倭乱以後、強固にしてきた朝鮮と徳川幕府の憂国関係に決定的にひびが入ることになった。

 新井はまず朝鮮通信使は京都、東京まで入ってくるが、日本の使節は釜山までしか行けないから、相互主義の原則に従って朝鮮通信使を対馬で出迎えなければならないという易地聘(えきちへい)(れい)を主張した。
朝鮮通信使たちが諜報活動をするかもしれないという理由も加わった。

 徳川幕府は朝鮮通信使一行を接待するために幕府の年間予算に匹敵する百万両を注ぎ込んだ。
新井はこんな慣例をはなはだ不当に感じて「日本の60余州すべてが真心をこめて歓待し、天皇の勅使に対してよりも100倍も多い費用をかけている。
通信使一行の食事も朝、昼、晩ごとに15種類(本膳7種、二の膳前5種、三の膳3種)にもなる。」とし、接待慣例の大幅な改革を断行した。

 即ち、正史、副使、従事官ら三使に、朝晩の食事として15種の料理を出し、昼には13種の料理(本膳5種、二の膳5種、三の膳3種)を出す所を大阪、京都、名古屋、駿府(現静岡市)の4か所と帰路の赤間關(下関の昔の名)、牛窓(岡山県の南東部に位置する一地区)に限定させた。
このようにして、総接待費用を100万両から60万両に減らした。最後の通信使が対馬を訪問した1811年には23万6千700両に減った。

 新井が周囲の反対を振り切って独断で断行したもう一つの改革は幕府の国書の表記を「日本大君」から「日本国王」に直したことだ。
新井は《日本書紀》の記述を引っ張りだして朝鮮が古代日本の属国だったとして、天皇が中国の天子と同格であると強引な論理を表明して、朝鮮国王と将軍は同格であると主張した。

 倭国の君主の呼称である「大王」が天皇に変わったのは壬申の乱(672年夏に起こった王位簒奪劇)で勝利した後即位した天武天皇以後ということが日本の歴史学会の定説だ。
随って、その時までだけでも日本の天皇の名前で中国と朝鮮に国書を送ったことは歴史上一度もない。
当時の大学頭(幕府の学問を統括する長官)林信篤(1644~1732)と雨森芳洲ら大部分の学者と官吏達も天皇が中国の天子と同格だと主張するのは歴史的根拠がないので、将軍を国王と表記すれば天皇の聖域を侵犯することになるという反対論を提起したことで知られている。

 これに対して新井は大君という呼称が朝鮮では臣下の職位に該当し、室町幕府時代の外交国書に日本国王という表記を使用しているし、朝鮮が二代将軍秀忠(1579~1632)に送った国書に「日本国王殿下」と表記しているので、朝鮮と同等な国王として表記しなければならないと固執した。

 しかし、「日本国王殿下」という表記は対馬藩が作り上げたことと暴露された幕府側は自ら「日本国大君」と表記を戻したこともあった。
それでも、新井は中国の天子と日本の天皇は同格とし、朝鮮の太宗が明(みん)から国王として柵封された2年後室町幕府の三代将軍足利義満(1358~1408)も明から国王として柵封されたために朝鮮国王と日本の将軍は同格であると主張を曲げなかった。

 この国書の波動は明治政府が樹立されると再燃した。
日本は1868年に朝鮮に書契(外交文書)を送り、新政府樹立を通報し新しい国交と通商を要求するとともに皇、勅、朝廷等、前例のない字句を使用した。
当然、朝鮮は明治政府の書契を受け取ることを拒否した。
この事件が発端となって日本では征韓論が沸騰した。

 新井の屈折した朝鮮感がその後蔑韓論に繋がり、征韓論が触発されたことを考えれば、大きく現代韓日関係を悪化させた根元は新井だったしても言い過ぎではない。
また、新井の荒唐無稽な天皇感(日本天皇と中国の天子は同格)が江戸末期の皇国史観に繋がったことは二言する必要もない。

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