「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳52 9章―④真似ようとするならば雨森芳洲を真似よ

 そんな新井も初めは日本人が馬韓(百済の前身)の後裔だと言ったが、後で言葉を翻した。前東京大学教授江上波夫が1958年主張した「騎馬民族説」は実は新井がその源流なのだ。(《日本の朝鮮文化》、中央文庫、1982)。

 幼年時代から朝鮮の漢文書籍を耽読したが、朝鮮通信使と出会って学問に自信を持った新井が洋学を学んで出世すると、突然態度を変え「朝鮮は狡猾で空威張りすることが多く、利益を求めて汲々としていて信義を知らない。」と朝鮮を侮るようになったことはどんな理由からか?

 新井は自身の自叙伝《折りたく柴の記》で、外祖父が豊臣の朝鮮出兵の時朝鮮へ出征した戦歴があると書いている。 
在日同胞の歴史学者、韓桂玉は《征韓論の系譜》(三一書房、1996)で新井の出身階層と強い自尊心が朝鮮に対するコンプレックスとぶつかって次第に朝鮮感が屈折していったという要旨の推理を展開していた。

 新井は江戸地方の下級武士の家柄に生まれ、父が長い間浪人として過ごしたために家門の状況はとても悪かったと言う。
彼は詩歌に精通した父の影響を受けて幼いころから学問に関心を持つようになって朝鮮から伝わった朱子学を独学で学んだ。
そして30歳の時浪人生活を清算し当代第一の儒学者木下順庵(1621~1698)の門下生として入門した。
木下は製述官成琬(ソンワン)が新井の詩集に書いてくれた序文を読んでみた後、新井を弟子として受け入れたという。
もし、成琬(ソンワン)が序文を書かなかったら新井は生涯浪人儒学者として放浪したかもしれない。

 朝鮮との善隣友好を重視した雨森芳洲も実は木下の門下生だった。
年は新井が11歳上だったが、雨森が18歳で木下の門下生として入門したために書堂の序列によれば新井より先輩だ。
しかし、同じ木下門下生であっても雨森は朝鮮との善隣友好に全力を傾けた反面、新井は朝鮮を蔑視し、こき下ろすことに全力を傾けた。

 新井は朝鮮通信使節接待に関する改革を成功裏に遂行した功労を評価され禄俸が500石から1000石に増えた。
そして将軍家宣の政治顧問として出世した。
しかし、家宣と彼の息子家継(七代将軍、1709~1716)が死んで吉宗(1684~1751)が八代将軍として将軍の座に就くと、新井は住んでいた家から即刻追い出されるほど軽視された。

 作家藤沢周平は新井のこんな一生を《市塵》という言葉に凝集した。
得意の絶頂にあること限りなく、孤高を装っていた新井も結局は市塵のように突然消えてしまったという話だ。(講談社、1989)

 雨森が朝鮮との善隣友好を願って朝鮮語会話入門書である《交隣須知(心得;訳者注)》と大朝鮮外交指針《交隣提醒(注意喚起;訳者注)》を出したように、黒田氏も韓国人に対する愛情を込めた《韓国人あなたはだれか?》(モイム社、1983)にまとめたことがあった。
この時だけは黒田支局長は朝鮮との善隣友好を強調した雨森芳洲と似ているイメージだった。
雨森が慶尚道方言を駆使するほどの朝鮮語に長じているように、現役言論人の中で彼の韓国語の実力を超える者はいないだろう。
そんな黒田が共同通信から右翼紙産経新聞に移籍すると、態度を急変し事々に我々に噛みつく姿を見ると、三百年前の新井白石の狡猾な姿が見え隠れするのは筆者だけの考えだろうか?

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