現在日本で活動中の嫌韓派論客や韓国問題専門家たちの大部分の共通点は韓国大学に付設されている語学堂を出たということだ。
黒田勝弘も1978年延世大学語学堂に留学して韓国語を学んだ後、1980年に共同通信のソウル特派員として仕事をしていた。
防衛庁研究所主任研究官である武貞秀士(1949~)も黒田と同じ時期に延世大学語学堂に通った。
慶応大学の小此木政夫(1945~)教授は黒田より6年前である1972年に延世大学に留学した経歴がある。
早稲田大学の重村智計(1945~、中国遼寧省丹東生まれ)教授は毎日新聞のソウル特派員を務めた経歴を持っている。
従軍慰安婦補償に先頭に立って反対した後、現在は日本人拉致被害者を救出する会の副会長として活動している《現代コリア》の編集長、西岡力(1956~、現国際基督教大学教授)も1977年に延世大学国際学科に通った。
武貞、小此木、重村は黒田とは色が全く違う韓国専門家たちだ。
あえて言えば韓日友好派だ。
反面西岡をはじめとする《現代コリア》集団は黒田に引けを取らない心底嫌韓派だ。
いちいち列挙することはできないが、日本の反韓派、嫌韓派論客の相当数が韓国の4大学語学コースを歩んだ経歴があるのは明らかな事実だ。
このように日本で反韓、反北活動を広げている右翼論客たちはどんな形態であれ韓国と縁を結んでいる者たちだ。
例を挙げれば、代表的な嫌韓派論客である渡部昇一(1930~2017(訳者注))上智大学名誉教授はドイツミュンヘン大学(ミュンスター大学;訳者注)に留学したことがあった。
その時ソガン大学から留学しに来た韓国人神父たちと過去史問題で激論を繰り広げて、韓国人たちに対して憎悪の念を持つに至ったことで知られた。
彼は個人的には韓国人の親しい知人も多く、韓国民族がそれほど嫌いではなく、まっとうなことを言うが、我が国に事ごとに食い下がってくる心底嫌韓派だ。
従軍慰安婦問題で摩擦が激化した時、彼は産経新聞のコラム「正論」に「韓国人は日本が嫌なら帰れ」と攻撃した。
彼はまた、ノ大統領が3,1節記念の辞で「日本は賠償すべきことは賠償しろ」と要求すると、また再び放言した。
彼は「頭が金なのは北韓だけでなく韓国も同じだ。」と主張しながら、ノムヒョン大統領を「恩恵を知らないゆすり(脅迫して金品を奪う行為をする人)、たかり(ゆすりと同じ似たような意味)」だと攻撃した(WILL,2005, 5月号)
《醜い韓国人》(朴泰赫、光文社、1993)の実質的な執筆者という疑惑を受けた加瀬英明(1936~)は初代国連大使の息子という血統を掲げて共和党政権時代に我が国を自分の家であるかのようにしばしば訪れ盛大な歓待を受けた。
加瀬を主軸とした「心話会」グループがソウルの真ん中で「アジア未来会議」というのを開いて(1993、10)、「日本でなかったとしても朝鮮はロシアなどの植民地になっていただろう」、「日本が韓国を併合したのは朝鮮の真の独立を願ったためだ。」と騒ぎ立てたが、本人の言葉によると生命の脅威を感じてそそくさと日本に帰国した。
当時韓国右派の人士が加瀬の血統だけを信じて、彼を「知韓派日本人」と錯覚した結果だった。
自民党の新憲法起草委員会は作家、上坂冬子と共に文化庁長官を務めたことのある作家、三浦朱門(1926~)を諮問委員に委嘱した。
三浦は韓日間の何かの委員会の日本側代表を引き受けたことがあったが、現在は扶桑社版歴史教科書採択運動を支援している。
三浦は産経新聞に連載した「明治天皇の世界史的位置」という文で次のように高宗皇帝の面目をつぶした。
「19世紀中盤、東洋では3人の帝王が順々に即位した。
タイ国のラーマ5世は奴隷を解放し、郵便制度創設、電信鉄道敷設、政府機構の能率化等近代化に力を注いだ。
明治天皇は15歳で即位し、旧弊の打破、身分制度の解消、近代化思想を含む新国家方針5か条誓約文を発表した。
朝鮮の高宗は王位に付くと幼い頃焼き栗を盗んで食べ、お目玉を食らった焼き栗商人を探し出して懲らしめろという指示を出した。
明治天皇は中国の属国だった朝鮮の高宗と同年配だったが、焼き栗商人を懲らしめろという非君主的な行動はしなかった。」
三浦の夫人は作家の曽野綾子だ。
曽野はA級戦犯容疑者、笹川良一が創立した日本船舶振興会(一名日本財団)の会長として10年間活動した後2005年6月末に退任した。
彼女は篤実なクリスチャンを自任している。
しかし書いた文や行った行動を見れば間違いなく「侍クリスチャン」だ。
例えば、曽野は「私は9年7か月間、日本財団で約190億円を中国に援助してきた。
すべてが人道と平和のために使った。
しかし、私たち夫婦は来る8月15日に靖国を参拝するだろう。
靖国参拝派は戦争賛美ではなく戦争とその悲劇を追悼するためだ。
それでも中国と韓国が反対するから参拝するなというのは商売人に過ぎない。」と言って経済界の参拝反対圧力を牽制した。(産経新聞、2005、6,27)
極右政治家石原慎太郎(1932~)はどんな腐れ縁があって我々に向かっていつも暴言を躊躇わないのか?
石原は一橋大学法学部4学年に在学中であった1955年に《太陽の季節》で芥川賞を受賞し、一躍若者たちの偶像として浮上した。
参議院議員と衆議院議員を経験し1975年には東京都知事選挙に立候補したが落選した。
その後東京4区の衆議院議員に出馬して再び金バッジを付けた(国会議員となった)。
1983年に行われた総選挙では在日同胞3世として日本に帰化した新井将敬(東京大学、大蔵省官僚出身)の挑戦を受けた。
初め出馬した新井に1位当選の席を奪われそうになると、石原陣営は同じ自民党候補である新井陣営に無差別攻撃を加えた。
石原の第一秘書は新井の選挙ポスター約2千枚に「朝鮮から帰化した者というステッカー」をこっそり張り付けたが警察に検挙された。
石原自身も言論等を通じて「帰化した者が国会議員になれば韓日間に摩擦が起きた場合、韓国側の影響を受ける。」と新井を攻撃した。
筆者は新井議員が金銭疑惑事件に連座し自殺した時(1998年)、東京4区を取材したことがあった。
石原陣営の妨害にあっても、いつも1位当選するほど選挙民たちからは絶大な人気があった。
筆者はこのとき石原が韓国を攻撃していたことは新井に1位当選を奪われた腹いせだったかもしれないという気がした。
《新東亜》2005年4月号によれば、「石原の父は日帝時代に油槽船で軍用重油を輸送する船舶会社の重役だったが独立して商船会社を作った後、金を稼ごうと日本に行く韓国人労働者を大阪まで載せて運び、金儲けした。
弟、裕次郎の夫人、北原三枝が韓国系だった。」という説もある。
このようにみると石原の嫌韓体質は新井に対する腹いせから出発したのではなく、幼い時から体に染みついたのだろう。
前に紹介したように朝鮮との善隣友好を強調した雨森芳洲と朝鮮通信使接待を簡素化した新井白石が木下順庵の門下生だった。
雨森は釜山倭館に長期滞留して慶尚道方言を駆使するほどに朝鮮語が上達し、新井は朝鮮通信使に序文を書いてもらってから学問に対する自信をもらった。
そうであった二人のうち一人は朝鮮との善隣を強調する道を選び、一人は朝鮮を軽蔑し軽んじる道を選んだ。
歴史は繰り返される。
韓国に留学して韓国語を学んだ戦後の日本人も新井のように蔑韓派の道を歩く人たちがいて、雨森のように善隣友好の道を歩こうとする人もいる。しかし、「悪貨は良貨を駆逐するというように」雨森の後裔より新井の後裔がいつも多かったか、あるいはもっと多いだろうという事実を見落としてはだめだということだ。
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