沖ノ鳥島は太平洋に浮かんでいる2つの暗礁であり、そのうち水面の上に突き出ている部分は各々1m90cmに過ぎない。
日本は200海里経済水域を確定する心づもりで驚くなかれ285億円をかけて鉄製ブロックを9900個積み重ね、これを人工島として造成した。
国際法上日本の領土であることを知らせるために灯台も設置する計画だ。この暗礁には現在「日本最南端の島」という看板が設置されているが、東京都の石原知事はここに電撃上陸するパフォーマンスを始めた。石原の次の目標は竹島だ。
11章―① 短刀
新しい歴史の会が作った中学校歴史教科書《新しい歴史教科書》(市販本、扶桑社、2001)の<日清戦争と中華秩序の崩壊>(216ページ)には次のような叙述が出てくる(2005年度改訂版には<朝鮮半島と日本>というコラムとして移動)。
「東アジアの地図を広げてみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れた海に浮かんでいる島国だ。
この日本に大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時朝鮮半島が日本に敵対する大国の支配下に入れば、日本を攻撃する二つとない基地になり、後背地をもてない島国日本は自国の防衛が困難になるだろうと考えていた。」
新しい歴史の会が文部科学省の検定を申請する当時は次のような叙述だったという。「朝鮮半島は日本列島に向かって絶え間なく突き出された凶器になりえる位置関係にあった。」文部科学省の指導で「凶器」という表現を「腕」に直されることを外せば、韓半島に対する植民統治を地政学的に正当化するという戦前の論理を再び展開している。
1903年6月に開かれた御前会議でも当時の小村寿太郎(1855~1911)外相は「朝鮮はまるで利刀(鋭利な刀)のように大陸から帝国の重要部に向かって突き出た半島で、もしほかの強国が半島を侵略するようになれば帝国の安全は常に危険になり、これを座視できない。」という文書を提出した。
また、京都大学名誉教授梅棹忠雄は「近代日本の最大の問題は巨大なユーラシア大陸から朝鮮半島を経て日本に張り出している等圧線をどのように死守するかと言う事」だと主張して、この等圧線を「文明世界を暴風のように疾走し、治癒できないほどの打撃を負わせる「中央アジア的暴力」だと定義した(《文明の生態史観》、中央公論社、1967)
歴史をさかのぼってみれば、日本は白村江の戦を契機に韓半島に対する絶え間のない恐怖心を感じてきた。
《日本書紀》等によれば、大和朝廷は百済の遺臣たちの要請を受けて662年軍船800隻と4万2千名余りの救援軍を百済に派遣した。
当時の人口が500万から600万名程度であったから、全人口の0.5%を救援軍として派遣したわけだ。
しかし、663年今の錦江流域の白村江で2日間繰り広げられた戦闘で百済と倭連合軍は唐と新羅連合軍に大敗してあたふたと撤収しなければならなかった。
その後、大和朝廷は、新羅、唐の侵略を防ぐため北九州に防衛拠点である大宰府と水城を築き、辺境守備隊である防人を筑紫、壱岐、対馬に駐屯させた。対馬には最前線基地である金田城(かなたのき)を構築した。
敗北の衝撃から抜け出られない皇子中大兄も4年後である667年大津宮に帰った次の年、天智天皇(在位期間668~671)が即位した。
そして恐ろしさにおびえて河内(大阪東部地域)付近の高安山に城を築いた。
それでも満足できず、近江(滋賀県)に遷都した。これが日本の「専守防衛戦略」の出発点だ。
日本はまた唐国で安禄山の乱が起こったという噂が伝わると安禄山が攻め込んでくるかもしれないから、あらかじめ新羅を攻めなくてはと新羅征伐計画を立てた。
奈良時代の正統歴史書である《続日本紀》によれば、759年新羅を征伐する船500隻を作れという指示が下された。
これが日本の「専守防衛戦略」と「征韓論」の出発点だというのが筆者の考えだ。(神功皇后の三韓征伐が歴史的事実ではなく神話や説話に過ぎない。)
日本の専守防衛戦略は高麗と蒙古連合軍が2回にまたがって遠征した時、大きな効力を発揮した。
扶桑社版中学校歴史教科書は「1281年2度めで4400隻に14万の兵力を乗せて九州北部に侵略しに来た。
しかし、博多湾に石塁を築くなど防備し上陸を阻止することができた。」と記述している。
一方日本の専守防衛戦略は壬申倭乱、丁酉災乱を経験して明治時代の征韓論と利益線、生命線構想に繋がって結局韓半島を武力で併合するという事態に発展した。
こんな歴史的事実として推測してみると、日本列島に住んでいる人たちはいつも匕首や短刀の先が自分たちをねらっているという恐怖心を抱いていたことがわかる。
北韓が2006年7月ミサイル発射実験を強行すると日本の閣僚たちが北韓に対する先制攻撃云々したのは北韓の核施設とミサイル発射記事を念頭に置いたのだ。
地政学上韓国がねらっている短刀の刃を避けるため日本列島はこのように専守防衛戦略と前陣防御戦略を交互に駆使してきたというのが筆者の考えだ。
日本が弱い時は専守防衛戦略を、強い時は前陣防御戦略をとってきた。現在の専守防衛戦略も平和憲法の制約を受け、即ち日本が弱いために取っている「方便」だから目的のためにはどんな困難も辞さない覚悟でとっている手段に過ぎない。
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