「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳73 11章ー⑨和解の道「絶対に引っ越せない隣家と生きる道」

 小松左京の空想科学小説《日本沈没》(徳間書店、1983)が最近再び映画化された。
映画が大変な人気であるのを見ると日本列島が海の底に沈没するという恐怖症からまだ立ち直っていない証拠だ。
「活断層を枕にして寝て起きる。」という言葉があるほど体で感知できる有感地震だけでも年間千余りの事例が発生している世界有数の地震大国であるためだ。

 地震とは縁のなかった関西地方でも大地震(阪神大震災、1995,1)が起こり、6千名以上が命を失った。
2004年10月には新潟地方でも震度6.8の大地震が起こり、第二の関東大震災が差し迫ったという恐怖心が広まっている。

 活火山も108個ほどになる。
三宅島の火山が噴火して東京へ避難した住民が再び帰郷したが、常に防毒マスクを携帯していなければならない程度だ。
しかし、日本列島の下に敷き詰められた巨大な地層が移動することによって日本列島が均衡を失って丸ごと海の底に沈没するという「日本沈没」はどこまでも仮想のシナリオだ。

 現在の日本列島が生成されたときは今から一万年前だ。
氷河期には海水面が100mほど下降して大陸とつながっていた。
一万年前ごろ最後の氷河期が終わると再び海水面が上昇して、大陸と分離した今の日本列島が誕生した。

 日本列島の生成史から見ると日本が再び水面下に沈没するのは少なくとも一万年以後になるだろう。
一部では地球温暖化現象で日本列島の沈没が早まるという予測もある。
しかし地球温暖化で日本列島が沈没すれば韓半島も例外ではない。

 日本列島が少しずつ太平洋の方へ移動しているという主張もある。
しかし、日本列島が北米大陸に繋がるにははるかに長い時間がかかるだろう。

 このように見ると日本は少なくとも一万年間「絶対引っ越していかない隣」だ。
良くも悪くも今後一万年間は玄界灘を挟んで耐えて生きて行かねばならない隣の国なのだ。
隣とはけんかもし、和解もする。

 歴史をさかのぼってみれば、倭国は宗主国百済を救援するために漢半島に大軍を派遣した。
白村江の戦いで新羅唐連合軍に大敗して逃亡するかのように撤収した倭国は新羅と唐の侵攻に備えて九州と対馬に辺境守備台を設置した。
しかし、その次の年である664年5月唐の熊津(ユウジン)都督劉仁願が日本に使者として派遣された。
667年11月には郭務悰が倭国捕虜1400名を帯同して対馬を訪問した。百済の流民達と戦うためには倭国と助け合わねばならないからだ。
三国を統一した新羅も唐との戦いを有利に進めていくために倭国に使者を派遣した(遠山三都男、《白村江》、講談社、1997)。
韓半島と日本列島間のはじめての「戦後」に該当する7世紀中葉には2~3年ぶりに和解が成立したことになる。

 豊臣秀吉が急死して日本軍が撤収すると対馬藩主宗義智は朝鮮に使者を送り貿易再開を訴えた。
宗は徳川家康が天下を平定すると家康にも朝鮮との国交回復を陳情した。家康がこれを欣快に;非常に喜んで(訳者注)(흔쾌히)受け取ると松雲大師惟政(ユジョン;訳者注)が日本の内情をひそかに探る探賊使として派遣された。

使命団は2代将軍秀忠(1579~1632)と京都の伏見城で会見し徳川政権の国交回復意思を直接確認した。
駿府に引退していた家康から国交回復を望んでいるというメッセージも受け取った。
このようにして朝鮮朝廷は1607年通信使節団を日本に派遣した。
秀吉軍が撤収した9年後のことだ。

 「3回目の戦後」は日本の植民統治が終わって韓国が解放された以後だ。
さまざまな紆余曲折があったが、この時は1965年に国交正常化交渉が締結されて20年ぶりに和解が成立した。

こうしてみると日本が韓半島を侵略するたびに比較的早い時期に和解が成立し国交が回復したわけだ。
たとえ2~3年後が9年後に、9年後が20年後にだんだん遅れて行ったとしても。
随って、もし日本列島から3回目(白村江の戦は派兵目的が百済の救援だったし倭軍が一方的に負けて逃亡したわけだから除外しよう)示威行動が出てくれば、今度はその「戦後」が相当長くなり、和解が不可能になるかもしれない。

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