長岡藩の小林は幕末の思想家佐久間象山(1811~1864)の弟子だった。
長州藩の吉田松陰(別名、寅次郎 1830~1859)も佐久間の門下生だった。
二人は名前が似ているだけでなく才能が特出していて、当時「二頭の虎」と呼ばれることもあった。
吉田は1856年、故郷(現山口県萩市)へ帰り私塾「松下村塾」を開き、高杉晋作(長州藩の有名な攘夷論者、1839~1867)、伊藤博文、山形有朋(陸軍の創設者で急進武力併合派、1838~1922)らを育てた。
吉田はその後、幕府の開国政策に反対したが1859年30歳で処刑された。
処刑された吉田の死体を収拾し長州へ送った者は他でもない伊藤博文だった。
ちなみに、伊藤は当時利輔(俊輔?訳者)と言う名前を使用していた。
伊藤が博文と改名したのは1869年大蔵相の局長級幹部として抜擢されてからだった。
吉田は若い時に処刑されたが、米百俵で長岡藩を復興させた小林とは比較にならないほど歴史的人物、尊敬する人物として崇められている。
ちなみに、安倍晋三(2005,4)から座右の銘を聞くと「私の故郷山口県が育て上げた吉田松陰先生が言った言葉『誠意を尽くせば動かせないことはない』を肝に銘じています。」と明らかにした。
しかし、吉田と彼が育てた弟子たちの功績を追跡してみれば、長州藩即ち山口県が選挙区である安倍の細胞の一つ一つにも外征論と征韓論が根深く刻印されていることがわかる。
吉田は生前に残された諸著書に数えきれないほど「朝鮮をとるのか?シナをとるのか?」を論じている。
ちなみに、吉田は同じ長州藩出身の実力者桂小五郎(後に木戸孝允に改名、1833~1877)に送った書簡(1857ン年)で「長州が(直接)朝鮮、満州に相対する必要はない。
それなら竹島が第一の橋頭保だ。
これが一番の奇策だ。」と書いている。
明治政府が島根県条例として編入したことが1905年であり、吉田はその48年前に独島簒奪を提起していることになる。
吉田の生家の近隣には豊臣秀吉の朝鮮侵略の時引っ張られてきた朝鮮人陶工が住んでいて、「韓人峰」という山があり、幼いころの遊び場だったという。
だから、朝鮮についての彼の関心、外征思想の形成は幼いころから秀吉の朝鮮侵略を海外雄飛、進取の気質だと学んで育ってきた影響が大きい(ハンゲオク《征韓論の系譜》)。
吉田の外征思想はその後、征韓論、朝鮮併合論、大陸進出論に発展した。
伊藤博文や山形有朋ら弟子たちは実際に朝鮮を武力で併合した。
韓国併合と植民統治に長州藩出身が主に活躍したことは当時彼らが陸軍を掌握していたためだ。
注;安倍の選挙区山口県4区(下関市と長門市)は吉田松陰が始めた松下村塾があった萩市と隣接した所だ。そんな由来も知らず韓国併合派を多数養成した吉田松陰を常に尊敬する人物としてみなしていた。また、幕末長州藩の根拠地であった山口県は、県庁ホームページのハングル版紹介によれば「611年朝鮮の皇太子第2子大内家門の祖先であるリンソ(琳聖太子?;訳者注)が定着した所」だ。筆者が「大内文化探訪会」に連絡してみた結果「朝鮮の皇太子」は百済26代聖明王の第3番目の息子琳聖(リンソ)王子だ。現在の山口県山口市大内荘に定着した林聖王子は当時の権力者聖徳太子の厚遇で勢力を拡張しその子孫が大内氏を起こして立てた。大内家は1557年長州藩の始祖毛利元就(1497~1571)に敗北するまで室町時代から戦国時代にかけて約200年間山口市一帯を支配し、大内漆器、瑠璃光寺五重塔等「大内文化」の鼻を開花させた。また、山口県は萩陶磁器が有名な所で、これも「萩地域を統治していた封建領主が窯を開き朝鮮陶工を招請し陶磁器を制作した所」が出発点だ(ハングル版ホームページ)。「一時、韓半島と大陸に繋がっていた山口県は海峡が狭く日本が島国になった後にも大陸の文化を日本各地に伝播する要地の役割をしてきた。」というハングル版記述によれば、山口県は渡来人や朝鮮の陶工たちが大挙定着した地域だ。安倍の外祖父である岸と佐藤が大内家の子孫であれば、安倍の血筋にも渡来人の血が流れていることは間違いない。(岸と佐藤の出身地は百済の琳聖王子が住み着いた山口市からそんなに遠くない熊毛郡田布施町だ。)
「外征論者」吉田を崇めている政治家は安倍ただ一人ではない。
2005年9月に行われた衆議院総選挙で「松下政経塾」(以下政経塾)出身の政治家26名が衆議院議員に当選した。
参議院議員2名を合わせれば政経塾出身の国会議員は28名(民主党20名、自民党8名)だ。
第2次小泉改造内閣(2004年9月27日)の時は政経塾出身の伊藤達也(比例東京選挙区)議員が金融相として入閣して初めての閣僚を輩出した。
また、2005年9月総選挙直後第一野党民主党の執行部も政経塾出身者に交替した。
新代表として選出された前原誠司(1962~、京都2区5選)は政経塾8期出身であり、国会対策委員会委員長、野田佳彦(1957~、千葉4区、4選)は政経塾1期出身だった。
政経塾はよく知られているように松下電器の創業者、松下幸之助が私財70億円を投入してつくった人材養成学校だ。
1980年4月に第1期生30名を募集して以来約300名の卒業生を輩出した。21世紀日本の繁栄を担う人材を養成するという松下の設立哲学が100余年前の吉田松陰の松下村塾に似ているとして政経塾は「現代版松下村塾」と呼ばれた。
松下が神奈川県茅ケ崎の6000坪の敷地に設立した政経塾の正門を入るとまず「黎明の塔」が一目でわかる。松下は生前に「世界の繁栄は回り回って、結局21世紀はアジアが繁栄する番であり、その中心は日本だ。」という持論を広げた。
いつか筆者が政経塾を取材しに行ったが、政経塾は松下の持論を学生たちに周知するために繁栄の鐘の音を毎日3回ずつ電子合成音で聞かせていた。
最近、政経塾卒業生たちが政界に進出し一つの政党を結成するほどその勢力が大きくなった。
地方政界に進出した卒業生たちを合わせれば、政界進出者数は60余名に上る。
現在、政経塾出身の国会議員は主に民主党(20名)に集中しているが、これらがいつかは自民党所属の卒業生たちと合体して「松下政経塾党」を誕生させるというのが衆論だ。
日本中心の繁栄哲学で武装した「松下政経塾党」が船出すれば我々はまた一つの自民党、即ち保守政党と直面することになる。
明らかにして見れば、政経塾創立者、松下も敗戦直後公職で追放された熱烈な「戦争協力者」だった。
松下の繁栄哲学も吉田松陰の外征思想と大きく異なる点はない。
日本が支配する平和、繁栄に過ぎない。
即ち、松下が主張する繁栄哲学の最終目標はパクスアメリカーナ(Pax Americana,日本の経済力による世界支配)の達成だ。
松下政経塾出身の政治家たちが正にパクスアメリカーナの忠実な具現者達だという事実を忘れてはならないだろう。
ソウルで開かれた日韓経済協会総会(2005,4)で奥田碩会長は「中軸となる日韓関係構築のための役割」という題目の基調講演で韓日両国が協力しなければならない過程として「東アジア経済圏建設」を挙げた。
奥田会長は韓国映画ファンで、夫人は熱烈な「冬ソナファン」として知られている。
経団連幹部の夫人たちも集まりさえすれば必ず「韓流」を話題にするという。
しかし、日本財界が今憲法改正の熱烈な支援者という事実を忘れてはならない。
敗戦後財界人たちは仮に戦犯として逮捕はされなかったが、財閥解体や公職追放令でひどい打撃を受けた。
まもなく財閥解体が有名無実になると、三菱、三井、住友、グループなどが形態だけ変えて再び復活した。
そんな財界が再び憲法改正を積極支持しているという事実は尋常でないことだ。
日本人として二番目のノーベル文学賞を授賞した大江健三郎は天皇がくれた文化勲章を拒否した時、右翼から執拗な攻撃を受けた。
彼は第2回ソウル国際文化フォーラムに参加するためソウルを訪問した時(2005,5,23)、「経団連が先頭に立って憲法改正を煽いでいる現状に大きな憂慮」を表明した。
財界こそは軍部、官僚と共に侵略戦争を遂行した三頭立て馬車だったからだ。
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