小泉総理の直前、総理であった森喜朗は総理在任中に日本は天皇を中心とするひとつの神の国という「神国発言」をして大きな物議を醸し出したことがあった。(2000,5,15)。
森は「神道政治連盟国会議員懇談会」結成30周年祝賀会のあいさつで「日本は天皇を中心とするひとつの神の国ということを国民ははっきりと知らなければならない、そのような考えで活動をして来てから30年が経った。」と言い、「神と仏を学校や社会、家庭で教えていくことが日本の精神論から見ると最も重要なことではないか?」と主張した。
日本の主要新聞は一斉に森総理の発言を一面トップなど主要な記事として扱い、「森総理の神国発言は憲法の政教分離原則違反になる。」と攻撃した。
野党も一斉に立ち上がって、森総理の即刻退陣を要求し、問責決議案と不信任決議案を国会に提出した。
森の神国発言をさかのぼると、その原点は天皇家の祖先天照大神を祀る伊勢神宮にある。
三重県伊勢市にある伊勢神宮は全国に散らばっている8万余の神社の本社である。
敗戦前には国家神道の頂点だった。
それで、連合軍総司令部は1945年12月伊勢神宮を靖国神社とともに超国家主義の殿堂と定め、一介の宗教施設として格下げさせたところだ。
また占領下の総理達も敗戦後新しく制定された平和憲法の政教分離原則(20条)に違反するという理由で伊勢神宮参拝を自粛してきた。
そうこうするうちに、日本が連合国から独立して3年たった1955年正月、鳩山一郎(1954~1956年在任)総理が伊勢神宮を参拝したことが発端となって、総理達の伊勢神宮参りが始まった。
特に1965年正月、佐藤栄作(1904~1975年在任)総理が閣僚たちを大挙帯同して伊勢神宮を参拝して、慣例的な正月行事として定着した。
クリスチャンであった大平正芳(1978~1980年在任)総理も在任中伊勢神宮を参拝した。伊勢神宮参拝が憲法の政教分離原則に違反すると主張してきた村山富市(1994~1996年在任)総理もやはり在任中に伊勢神宮を訪れた。
すべての日本人たちが宗派に関係なく日本を今も「神国」として敬っている証だ。
天皇の伊勢神宮参拝も明治以降慣例として定着した。
歴代天皇中、伊勢神宮を初めて公式参拝した人は明治天皇だ。以後ヒロヒト、アキヒトも即位式と結婚式に合わせて伊勢神宮を参拝した。
ヒロヒトは戦争が終わったことを報告するために1945年11月伊勢神宮を参拝したこともあった。
ナルヒト王世子(皇太子)も雅子妃との結婚式に合わせて、伊勢神宮を参拝した。
また、20年ごとに開かれる「式年遷宮(20年ごとに新しい神殿を造って、神体を移動する儀式)」の時も天皇が伊勢神宮を参拝する慣例が生じた。
現アキヒト天皇は1993年に式年遷宮行事が挙行された直後伊勢神宮を参拝し、同時に次の式年遷宮は2013年に執り行われる。
小泉総理も2004年正月元日に靖国参拝を終わらせてから4日後に伊勢神宮を参拝した。
靖国を参拝する時は憲法の政教分離原則に違反するという事実を勘案して神道参拝儀式である「2礼2拍手1礼」を講じなかったが、伊勢神宮参拝の時は伝統の神道儀式で参拝したという。
これをもって、法制国家は私的参拝ならば現職総理が靖国や伊勢神宮を参拝しても憲法上問題がないという見解だ。
しかし、靖国や伊勢神宮を参拝する時、小泉総理をはじめとする歴代総理達は必ず「内閣総理大臣何某」と書いている。
どうしてこれが私的参拝と言うのか?
社民、公明、民主3党議員で構成された「国立追悼施設を考える会」も2006年6月に発表された中間報告で「靖国への公式参拝は憲法違反の素地がある」とはしていない。
例えば、大阪高等裁判所は2005年9月、小泉総理の靖国参拝は私的な行為ではなく、公的な行為だと判示した。
大阪高等裁判所は小泉総理が公用車を使用して秘書官を同伴したという点、総理就任前の公約を実行する次元から参拝がなされている点、小泉総理が私的参拝だと明確には明らかにしないで公的な入場であることを否認しない点をその理由として挙げた。
しかし、日本の最高裁判所は2006年6月、小泉総理の靖国参拝が憲法に違反したかの当否は判断しないまま戦没者遺族が提起した損害賠償上告審を棄却した。
今日本は憲法違反に該当する総理の神社、神宮参拝についてだれ一人是非を論じない国に変わっていった。
しかし、我々は総理の靖国神社参拝より伊勢神宮参拝をもっと警戒しなければならない。
なぜならば、「神国思想」の発祥地が即ち伊勢神宮であり、伊勢神宮の歴史が即ち韓国侵略の歴史でもあるからだ。
「神国」という言葉が初めて登場する文献は《日本書紀》の<神功皇后記>だ。
即ち神功皇后摂政前期に「兵士を引き連れて海を越えると、東方に神の国があって日本と言い、聖王(徳の高い王)がいて天皇と言う。
結局、ここへ来た兵士達はその国の神兵だとし服従を誓って、宝物を乗せた船80隻をささげた。」と記述されていて、「神国」「神兵」という言葉が初めて登場する。
8世紀初めに捏造されたこの神功皇后の「三韓征伐説」あるいは「新羅征伐説」が1300年にわたる韓半島侵略と彼らの優越意識の根幹であるという事実を我々は肝に銘じなければならない。
蒙古軍が来襲した時、偶然に来た台風が「神功皇后の神力が起こした風」という意味の「神風.かみかぜ」に化けた。
以後「神功皇后伝説」が広範囲に広がるとともに、神功皇后が新羅を征伐する時、お腹の中にいた応神天皇(伝説上の人物)を祭神として祀る八幡神社が雨後の筍のようにできた。
仏教との差別化を明白にしようという動きが起こって、伊勢神宮が成立したのもまさにこの頃だ。
歴史上日本の統治者たちは神国思想をどのように利用してきたか?
豊臣秀吉は、神国思想にとらわれて大国明を攻め、2度ほど朝鮮を侵略した。彼は荒廃していた伊勢神宮の外宮と内宮の式年遷宮に大金を投じて、朝鮮を侵略する日本丸(全体の長さ33メートル、船幅13メートル)を伊勢の大湊で建造させた。
また、朝鮮侵略の前進基地として九州に名護屋城(佐賀県北部)を築城し、神功皇后と仲哀天皇を祀る長門(山口県)神社を参拝して勝利を祈願する儀式を執り行った。
その後戦況が不利になると、秀吉は和議条件7か条と明国の勅使に報告する条目を作り、日本は神国であり、自分は「日輪の息子」だとし、天下統一を「天命」と言って、敵意を表した(千田稔《伊勢神宮》、中公新書2005)。
壬申倭乱が終わると、朝鮮は家康の和平要求を受け入れて、通信使節を日本に送った。
《朝鮮人来朝行列記》(1763)は神功皇后の「新羅征討説話」に立脚して朝鮮人来朝を「神国の威徳」だと記述している。
江戸時代の儒学者、国学者達が《古事記》や《日本書紀》を絶対視,神聖視する風潮をつくって、神功皇后の新羅征伐説は歴史的事実として固まった。
明治政府が1930年に制作した第一期国定教科書にも《日本書紀》の神功皇后記述がそのまま載せられ、日本は伊勢神宮の保護を受けている神国であると国民を教育した。
その延長線上に征韓論、日程36年間におよんだ植民統治があったという事実は二度言うまでもない。
こうして注意してみる時、韓国侵略の歴史が神国史上の歴史とかみあわされていることは 間違いない事実だ。
そのために我々は天皇と総理の伊勢神宮参拝を靖国参拝よりももっと警戒しなければならないのだ。
例を挙げれば、敗戦後ヒロヒトは「人間宣言」をして、「現人神」であることを否定した。
しかし、現アキヒト天皇は憲法違反だという非難が非常に激しくても、父王ヒロヒトが死んだ1989年1月7日に王位の象徴である三種の神器(鏡、剣、勾玉)中、剣と勾玉を引き継ぐ継承儀式を執り行った(鏡は別殿に保管されている)。
あくる年の11月には「即位の礼」とともに天皇家の祖先である天照大神と天皇が一体となる儀式である大嘗祭(天皇が即位後初めて執り行う新嘗祭、即ち新米を天照大神と天新地祇に捧げる儀式)を最初にして、再び「現人神」として復活した。
日本はすでに統治する神国として復活したのだ。
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