「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳19 3章―小泉の壁;彼の根元は神風特攻隊?

小泉総理が韓国や中国の非難にもかかわらず靖国神社参拝を強行するのは、自民党総裁選の時   靖国戦没者の集まりである遺族会に手渡した一枚の約束手形のためだ。

3章―① 
        朝鮮人卓庚鉉(タクキョンヒョン)と日本人光山文博

「ホタル」は神風特攻隊をテーマとした日本の映画だ。女性主人公、友子は朝鮮人出身の神風特攻隊員と婚約した間柄であったが、戦況が切迫した太平洋戦争末期に婚約者が沖縄に出撃し、戦死してしまった。
友子は戦争が終わった後、神風特攻隊員であった山岡と出会い結婚したが、生涯心の傷を癒すことができずに生きて行くということが大まかなあらすじだ。

 この映画に出てくる友子の朝鮮人婚約者は陸軍特別攻撃隊第51振武隊所属光山文博少尉がモデルであることが知られている。
実際に、彼は日本が降伏する3か月前の1945年5月11日朝、鹿児島知覧特攻基地を離陸し沖縄へ出撃したが帰らぬ人となった。

 今まで日本で出版された本や資料を総合すれば、光山は慶尚南道サチョン郡ソポ面で生まれた卓庚鉉として、京都薬科大学専門学校を卒業して1943年特別操縦見習い士官第1期生として、自ら志願して入隊した人物だった。 

 そして卓庚鉉は知覧基地村にあった富屋旅館の女主人トメを本当の母親のように従った。
沖縄へ出撃する前の晩には朝鮮の布で作った財布を預けるほどだった。
トメもまた誰も面会に来ない光山少尉をかわいそうに思い、本当の息子のようにかわいがったという。
その後、トメは卓庚鉉をはじめとする神風特攻隊員が出撃する直前に預けておいた遺品を戦争が終わった後、靖国に寄贈した。
その遺品の一部が靖国境内に設置された武器博物館、即ち、戦勝記念館である遊就館に展示されている。

靖国神社境内に設置された戦勝記念館である遊就館

日本厚生省援護局によれば、朝鮮出身の日本軍兵士は1938年の陸軍特別支援兵、1944年の朝鮮人学徒兵、1944年から開始された徴兵制で徴兵された人をすべて合わせると、24万2千余名に達する。
ここに軍属を含むと364万4千余名に増加する(1953年、厚生局第2復員局調査)。
朝鮮人特攻隊員として戦死した人の中で身元の明らかになった人は現在まで14名だ。

 しかし、日帝の犠牲となった数多くの朝鮮人たちが戦争の終わった後に卓庚鉉少尉のように丁重な扱いを受けたとか受けているとか思ったら大きな錯覚だ。
現在靖国神社にいる韓国出身者は合わせて2万1181名に及ぶ。
主に太平洋戦争時の軍人、軍属として駆り出されたが死亡した人たちだ。数ある中には、敗戦後捕虜を虐待したという理由で連合軍につかまり、B,C級戦犯として追い込まれて処刑された人も混じっている。
しかし、厚生省は韓国の遺族たちに戦死通知はおろか靖国に奉安したという連絡さえしてくれなかった。
靖国に韓国人戦没者が合祀されている事実が初めて知らされたのは1978年頃だ。
その後日本政府が1991年に通報してきた太平洋戦争死亡者名簿が端緒となって靖国に合祀された韓国人たちの身元が明らかにされた。

 日本政府は敗戦後、A,B,C,級戦犯として追いこまれて処刑された日本人遺族達には遺族年金を支給するなど各種恩恵を与えた。半面、韓国人被害者にはサンフランシスコ講和条約に従って日本国籍を喪失したという理由でどのような恩恵も施さなかった。そこにB,C級戦犯として追い込まれて死刑の言い渡しを受けたが運よく刑を解かれた韓国人たちの中には親日派だと後ろ指をさされるだろうかと心配して故郷へも帰れず、日本にそのまま居ついた人たちも多かった。

 東京板橋区に住んでいる李鶴来(イハクレ、80歳)翁の境遇がいい例だ。李翁は日本軍軍属として徴用され、タイの捕虜収容所で監視員として勤務した捕虜虐待罪で逮捕されて1947年3月オーストラリア軍事法廷で死刑判決を受けた。
その後、この翁は無期懲役に減刑され1956年刑を解かれ、日本国籍を喪失したという理由で、日本人の軍人、軍属に適用される援護法の対象から除外された。

これに憤慨した李翁は釈放された後同じ処置の同志、家族たちと同進会を結成して日本政府を相手に訴訟を提起したが、敗訴した。現在同進会会員50名中生存している韓国人戦犯は13名で、死ぬ前に必ず日本政府の不当な処置を正すという信念を捨てないでいる。

 参考に敗戦後、連合国の捕虜虐待等の戦争犯罪で起訴されたB,C級戦犯は約5千7百名になる。そのうち984名が死刑判決を受けた。日本人とみなされた韓国、台湾人321名も起訴され、その間に韓国人23名、台湾人26名が処刑された。日本人A級戦犯は28名が起訴され、7名が絞首刑に遭った。

起訴された者の四分の一が処刑されたことになる。
しかし、A級戦犯容疑者が後に追加で逮捕され、110名に増えた事実を考えれば、処刑率は25%から6.4%に落ちた。半面、韓国人B,C級戦犯、即ち捕虜監視員たちは148名が起訴され23名が処刑された。
日本人たちより2倍以上高い15.4%の処刑率だ。

 その上、極東国際軍事裁判で終身禁固刑宣告を受けたA級戦犯、賀屋興宣(東条内閣の蔵相)は、釈放された後、池田内閣で法相、7年の禁固刑宣告を受けた重光葵(東條内閣の外相)は、鳩山内閣で外相を歴任した。
別名「巣鴨政治大学」を経たA級戦犯容疑者の中で岸信介(東條内閣の商工大臣)は、釈放された後、外相、総理に出世し、児玉誉士夫と笹川良一は政界の黒幕として暗躍した。
釈放された韓国人戦犯たちが故郷へも帰れず、力仕事で生計を立てなければならなかった人生に比べると天と地の差だ。

内鮮一体という旗のもとに強制的に戦地に追いやり、戦争が終わると「自分は知らない」という風に韓国人戦犯たちに顔を背けたこの人々がまさに戦後の日本の人達だ。
そうならば今も武士道精神に興奮する戦後の日本人に聞いてみたい。韓国人たちは誰のために戦って戦犯に追い込まれて犠牲になったのか?
彼らが日本人ではなく韓国人であるなら、なぜ戦後60年が過ぎた今も靖国神社慰霊者名簿に登載されているのか?
しかも韓国遺族たちの同意受けてないということだ。

 前に述べた《建て前と本音》の著者、増原良彦の指摘の通り「本音は強者の論理であり建て前は弱所の論理」だ。
即ち紛争が起これば、日本人は強者には本音の論理を適用し、有利なようにかばってやるが、弱者には建て前の論理で法と規則を厳格に適用する。戦後、日本政府は自国民被害者には強者に適用される本音と内意識を発動し日本という国の国体を保護し、死んだ戦没者として礼遇し各種年金を与えている。
しかし、弱者である朝鮮人被害者たちには厳格に建て前と外意識を適用し、朝鮮人たちを一朝一夕に恩典の対象外である第3国人として追い出した。

 増原は「二重標準」という用語を使用しているが、日本人の二重性即ち、本音と建て前、内と外の壁がどれだけ強いかを教えてくれるよい例だ。

  

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