「義和団の乱」が起こった6年後に生まれたキム・サン(1905~1938、本名張志樂)は日本留学を経て中国に渡り、抗日独立運動家として活躍したが日本のスパイ、トロツキー分子という冤罪を被って、延安において33歳で処刑された。
キム・サンが延安洞窟で偶然アメリカの女流作家ウエイルズに会い口述した《アリラン(SONG OF ARIRANG,A Korean Communist in the Chinese Revolution)》に日本と日本人についての印象を述懐している重要な部分が出てきた。
最初の部分はキム・サンが東京に留学(1919年夏から1920年初めと推定)した時経験した印象だ。
「私は日本にいる日本人が朝鮮にいる日本人ととても違う姿に驚いた。それは当然と言えば当然のことで、朝鮮にいる日本人は植民地の人たちを抑圧するため帝国主義の手先として雇われているから、母国にいる時とは天と地の差だ。
私は東京で知り合った多くの日本人が好きだ。
日本の共産主義者たちは誠実で強く、犠牲をいとわずみんなよい人達だった。
中国人がするように朝鮮人とか外国の同志を差別しない実に国際的な気質をもっている。」
しかし日本人に対するキム・サンの印象は1923年に起こった関東大震災と朝鮮人虐殺で大きく反転した。
「1923年に起こった大地震は日本史上最大の天災だった。その時6千名の在日朝鮮人が虐殺された。
そのうち千名は学生だったが中国人も600名ほど殺害された。
1923年以来朝鮮人は決して日本人を信用しない。
日本人も朝鮮人を信用しない。
食べて生きて行くために征服者の下で仕事をする人もいるし、ある人たちは経済的な理由で浪人(日本人の不良)に雇われている身分を受け入れている。
そうであっても、朝鮮人ならば心の中で「その日(独立)」を待ち望んでいることを日本人も知っているためだ。
1923年以後朝鮮の留学生と国民は日本行きを忌避し、代わりに中国へ行くようになったために、その後の2年間はだれも日本へ行かないと考えた。」
3番目の部分は、1930年11月キム・サンが北京で中国共産党員として地下活動を広げたが、国民党警察に逮捕された後、朝鮮へ送還され裁判を受ける過程で経験した経験談だ。
まず北京の日本領事館で比較的丁重な待遇を受けたことをこう回顧している。
「外国に出ている日本人の官吏は最下位の職などにあってもよい教育を受けた人たちだ。
彼らは日本帝国の先兵であるため領事館に来ている警官たちは朝鮮にいる警官とは異なるタイプだ。
朝鮮にいる警官たちは丁重ではない。
朝鮮では日本帝国が勝利を得ているから日常的な事務を行う人たちは二流の行政官たちだ。」
その後朝鮮に送還され、非常に厳しい取り調べを受け、経験した印象をキム・サンは次のように述懐している。
「始めて拷問が開始された。
日本人が口と鼻の中に水を流し入れ、他の人が私の陳述を記録しようと鉛筆とノートを持っていた。
その留置場には60日間いたが、6回ほど水治療(水拷問)を受けた。私が失神するまで肺と鼻に水をずっと注ぎ入れた。
ある日曜日には警官が出勤してすると、肉がぱっくり裂けて骨が見えるまで腿を殴った。
水拷問で私は肺から血が混じって出てくるほど体が傷つき、26歳の青年であっても老人のように見えた。」
筆者がキム・サンの日本の印象記を今更のように紹介する理由は「1923年以後朝鮮人は日本人を信用しないし、日本人も朝鮮人を信用しない。」と言う話を今の時点でもう一度吟味してみようという思いからだ。
言葉を変えればキム・サンが70余年前にした遺言が今になって間違っているのかあっているのかを再び検証してみようという趣旨からだ。
参考にキム・サンが日本に留学する2年前の1917年、周恩来(1898~1976)も19歳の年に日本に留学した。
周恩来は次の年に東京司法学校を受験したが落ちた。
落ちた嘆きを紛らわそうと日比谷公園に遊びに行った周恩来は初等学校女学生が草花を植えて遊んでいる場面を目撃し、「中国人たちは口を開けば日本はみすぼらしい国だと言うが、よく考えてみれば日本がなぜみすぼらしい国だろうか?」と疑問を抱いたと伝えられている(《周恩来、19歳の東京日記》小学館)
周恩来はこの時の日本の体験を基に日本と国交正常化交渉を推進し、一切の対日賠償要求を放棄すると宣言した。
中国侵略は基本的に一部の軍国主義者たちが起こしたのであり、一般大衆は中国人たちのように侵略戦争の被害者だったという周恩来式「戦後処理方針」による。
しかし周恩来が今地下で靖国参拝復活、歴史教科書歪曲のような日本軍国主義の復活の動きをどのように評価しているのか気になる。
周恩来こそ日本の軍国主義を復活させた最大の功労者であると同時に、日本人の建て前と本音の最大被害者だったかもしれない。
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