「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳36 6章―⑥代表的な曖昧模糊とした日本人内村鑑三

《代表的な日本人》(1908)の著者内村鑑三は明治時代の代表的な知性人として知られた人物だ。
初、中、高等学校の歴史教科書に日露戦争に反対した平和論者として必ず登場する歴史上の人物だ。

 敬虔なクリスチャンであった内村は無教会主義を標榜し、宗教家、評論家として活動しながらロシアの極東進出を阻止するために、ロシアに対し強硬策をとらなければならないという開戦論が起きると、1903年自身が主筆としていた英字紙「万朝報」にロシアとの戦争は名分のない戦争であるとして非戦論を主張する論説を発表した。

 内村は自身が勤務していた東京第一高等中学校「教育勅語」朗読式で敬礼を拒否するいわゆる「不敬事件」を起こし、学校から追い出され(1891年)、しばらくの間貧乏に苦しんだこともあった。
また、韓国併合について「正義に立脚した根拠も、人道的な動機も持てない両国の併合が将来どんな懲罰と報いをもたらすだろうか?」という文を発表したこともあった。

 ハムソッコンをはじめとする朝鮮の青年たちはそんな内村を「朝鮮人に光明を伝道してくれる救世主」だと感じて随い敬った。
関東大震災が起きた次の年の1924年日本に渡っていき、東京高等司法学校に入学したハムソッコンはキムキョシン、ソンドゥヨンらと一緒に内村が主宰している無教会集会に参加し多くの指導を受けた。
そうしたある日、ハムソッコンをはじめとする朝鮮の青年たちは内村が関東大震災の時に取った行動を知って大きな衝撃を受けた。
関東大震災が起きると内村は朝鮮人たちが襲撃してくるという流言飛語を信じ息子とともに棍棒をもって家の近くを警戒していたという事実がわかったのだ。

 ハムソッコンをはじめとする朝鮮の青年たちは内村のような良識人が市中の雑多な人達のように流言飛語に惑わされて朝鮮人虐殺に加担しようとしたことは到底信じられないのだ。
その証拠にハムソッコンは《新東亜》1965年8月号対談でその時受けた衝撃と失望を偽りなく打ち明けた。
しかしハムソッコンをはじめとする朝鮮の青年たちは、当時内村の本音を正確に見抜けず建前だけで評価する愚かさを犯してしまったかもしれない。

それは無理なことではない。《建て前と本音》の著者増原良彦によれば建て前と本音という単語が日本の辞典に登場したのは敗戦後の事であるためだ。

 筆者は内村の本音を追跡してみるために彼の語録を探ってみた。
内村の口癖は一言で「敬虔なクリスチャンは厳格な侍の家から生まれる。」ということだ。
例えば内村は《聖書の研究》(250号)に「私が仕えているのは二つのJ、即ちJapanとJesus Christ」という事をはっきりと明らかにしている。
また、1928年札幌で「武士道とキリスト教」という題目で講演し「キリスト教は神の道であり、武士道は日本人の道だ。日本の武士が最上の信者を生み出したということは世の皆が知っていることだ。
辱めよりも死を選んだ聖パウロ(Paulos)は、日本の武士に対応するユダヤ人武士だった」と強調した。

 内村は死ぬ前に自身の墓碑に次の文字を刻むよう遺言に残してもいる。

 I for Japan
 Japan for World
 The world for the Christ
 And All for the Christ

内村が残したこのような遺言を見ても彼が生前「侍クリスチャン」であることを自認して、進んでこれを後世に残したかったことがわかる。

 金素雲も内村に対して失望をこのように披歴している(《随筆選集》4、亞成出版、1978)。

 「このようにも良心的な内村氏もついに日本的な体臭から抜け出すことができなかった事実を疑う人は彼の全集のどのページであろうと探り出してみよ。
例えば掃除する時の始めの匂いのような「日本特有の匂い」がそこから漂っているのを発見するだろう。」

そうして金素雲はその匂い、日本の体臭はどこから来るのだろうかと反問した後、すぐにそれが日本の武士道の匂いだと自問自答している。

代表的「侍クリスチャン」内村鑑三

「内村のような良心と道義の先覚者、西欧文化に通暁した英字紙、万朝報の主筆、その人の識見でも通り越せない武士道の体臭、そうしてみると彼の良心、彼の廉潔、不意を攻める時の激烈な語調とまったく同じに武士道的なニュアンスを帯びる。」

 内村は日清戦争を義理堅い戦争(「Justification for the Korean War 」,The Japan Weekly Mail,1894 ,8,11)だと言葉を尽くして称賛し、日露戦争の時には非戦論を展開した。
内村はまた韓日併合を嘆かわしいと言ったが、朝鮮人虐殺に加担しようとした。

 内村はまた例の札幌講演で「乃木大将、東郷大将、我が国古今の歴史を飾った勇士、信念を貫く烈夫の行為は国の基礎、国民の誇りでもある。」と言って、日露戦争を勝利に導いた乃木と東郷を、言葉を尽くして褒め讃えた。
非戦論を展開した人が、日本が戦争に勝利するといつの間にか乃木と東郷の称賛者に変わったのだ。

 内村はまた自身の有名な英文著書《代表的日本人》に征韓論を主張した西郷隆盛を一番打者として紹介し、西郷を新日本の創設者として持ち上げている。
そんな人物が韓日併合を嘆いたのだから、まさに前後が合致しない曖昧模糊とした「代表的日本人」だ。

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