「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳38 6章ー⑧日本人のための弁明、大川常吉を考える<大川常吉は、関東大震災の時、朝鮮人虐殺に立ち向かったある日本人警察官>

 震度7,9規模の関東大震災の時、当時東京一帯は甚大な被害を被った。死亡者9万9千名、行方不明者4万3千名、負傷者10万名以上、被害世帯69万世帯…。 
朝鮮人虐殺も全域で起きたことではなく、東京を中心に関東のある地方に限られたことだ。
こんな点を勘案して、「日本人のための弁明」を一つ紹介してみよう。

 日本の戦後歴史教育を正そうという標語を掲げて登場した「自由主義史観研究会」の藤岡信勝前東京大学教授らが、産経新聞に連載した「教科書が教えない歴史」シリーズは関東大震災の時の朝鮮人虐殺を次のように記述している。

 「1923年9月1日午前11時58分関東地方に大地震が起きると、警察などから朝鮮人が井戸水に毒を入れた。
火をつけて強盗を働き、暴動を起こしているという流言飛語が流れ出てきた。
悲劇はここから始まった。
軍隊、警察、自警団などが朝鮮人を見るとすぐ殺害し、その数6千名あるいは1万名だと言われている。
そんな殺気立った状況でも朝鮮人の命を守りぬいた人がいた。
横浜鶴見の警察署長だった大川常吉だ。」

 この記述によれば、鶴見で自警団に連行されるか、自分から警察の保護を求めに来た朝鮮人は、合わせて300名余りだった。大川署長は初め総持寺という寺の境内に彼らを収容したが、朝鮮人に対する敵愾心が異常な度合いまで高まると彼らを警察署に移して保護した。

 その事実を知った日本の群衆は「朝鮮人はみな殺せ」と叫びながら警察署を包囲した。その数1千名に達した。
群衆は「朝鮮人に味方して助ける警察署を叩き壊そう」と叫び、すでに暴徒と化していた。

大川署長は悲壮な覚悟で決心した。
群衆の前に出て行き二本の足を広げて食い止めた。
そして「皆さんがこの大川を信じられず話を聞かないなら、朝鮮人を殺す前に私を殺せ」と叫んだ。
大川は続いて「朝鮮人が毒を入れた井戸水を私にもってこい。
私がまず飲んでみる。
それで異常があれば私が保護している朝鮮人を皆さんに引き渡す。
反対に異常がなかったら朝鮮人は私にまかせてくれ」と叫んだ。

 大川署長はその場で一升瓶に入った井戸水を一滴も残さず飲み干した。大川署長の非常に厳しい態度に群衆はおじけづき解散して行った。  

 当時横浜、鶴見、川崎警察署で保護収容された朝鮮人は723名であったが、大川署長の配慮で神戸に本社を置いた鈴木商店の貨物船に隔離収容されて難を免れた。
一部は船に乗って神戸に送られもした。

 大川署長は後日当時の心境をこのように述懐したという。「朝鮮人、日本人に関係なくすべて人の命である。私の職業は人の命を守ることであるから、当然のことをしただけだ。」

 大川所長は1940年に63歳の年で他界した。
日本が降伏した後、鶴見地区に住む在日同胞は自分たちを保護してくれた大川署長を追慕する会を開いてきた。
1952年は大川署長が葬られている東漸寺に追墓碑も立てたという。

 大川署長こそは映画「シンドラーのリスト」に出てくるオスカーシンドラーのような存在だ。
関東大震災の時大川署長のような「暖かい心を持つ日本人」がもっと多かったら桎梏(手かせ足かせ、束縛;訳者注)の歴史として道が残った朝鮮人大虐殺を最小限に食い止めることができただろう。

 2004年10月12日、日本人として初めて建国勲章愛国章を追叙された布施辰治(1879~1953)弁護士も大川署長に劣らず品位ある日本人だ。パクヨル医師の弁護を受け持ち、無罪を主張した。

 彼はまた関東大震災の時、朝鮮人虐殺が起こると韓国新聞に追悼文を寄稿し、朝鮮総督府が農民の土地を収奪した実態について抗議した。東京にある彼の墓碑には「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」と刻まれているという。

 大川署長や布施弁護士のような日本人にしばしば会えば日本はあるように見える。
反対に今も朝鮮人大虐殺を煽っている砂田、森、石原のような根っからの右翼と運悪く遭遇すれば、日本はないように見える。
しかし大多数の日本人は「侍クリスチャン」内村鑑三のように曖昧模糊とした属性を持っている。
そのために日本はあるようにも見え、ないようにも見える。

 砂田の暴言が飛び出したのは朝鮮人大虐殺が起きてから32年後のことだ。森の暴言は69年後のことだ。
石原の暴言は77年後のことだ。
70年前に一人のキム・サンの予言が一寸も違っていないと言う証明だ

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