「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳39 7章 脱亜論の壁 日本の「偉人」福沢諭吉と伊藤博文の実態 

翻訳

 「韓国が安重根を今も讃えている実態」は日本とは明らかに異なる。逆に言うと日本はアジアではないと考える。」―関川         「同感です。私も文明論的に見て日本はアジアではないと考える。」―山崎

7章―① テロリストとして政治界に入門した伊藤博文 

《中央公論》2004年3月号に「日露戦争100年と司馬遼太郎」という題で次のような対談が載せられた。

山崎;伊藤博文は明治36年(1903年)に政友会をやめて枢密院会長になったが、それは引退であった。

関川;山形有朋(1838~1922、陸軍元首、枢密院会長)と桂太郎に強く押された印象だ。
伊藤は人の話をよく聞く開放的なタイプだったが、明治42年(1906年)に安重根に暗殺された。
私は相手が違っていたのではないかと考える。(笑い)
今も韓国では安重根は独立の闘士だ。
それが韓国民主主義の硬直性を象徴する何かではないかと。
テロで進展する歴史はない。
日本では井伊直弼(1815~1860、徳川幕府末期の重臣で反対派を無慈悲に弾圧し、水戸、薩摩藩の侍たちに暗殺された)の暗殺程度ではないだろうか?
しかし(日本は)水戸浪士を讃えてはいない。韓国が安重根を今も讃えている実態は日本とは明らかに異なる。逆に言えば、日本はアジアではないと思う。

山崎;同感だ。私も文明論的に見て日本はアジアではないと考える。

ここで対談を共にする山崎は劇作家であり東亜大学学長である山崎正和(1934~)、関川は中堅作家である関川夏央(1949~)だ。

 二人は日露戦争開戦100周年に合わせて司馬遼太郎が明治時代をどれほど自由で合理的な時代として描写しているか強調するために対談した。
話を共にしている中で日清戦争と日露戦争の勝利、明治時代の群像を自画自賛し、前述のような発言が飛び出した。

 韓国をよく知っている関川(彼は若かった時、韓国通として羽振りを聞かせた人物だ)が安重根義士をテロリストとして祀っている我々をまるで文明後進国であるかのように罵倒する態度に筆者は一抹の憐みの情を覚える。
伊藤博文が若かった時、テロ活動に着手していたことは、そこそこ歴史の勉強をした日本人ならみな知っている事実だ。
明治時代に関する本を多数執筆したことで知られる関川がそんな事実も知らなかったとは本当にあきれる。

 伊藤の出身地は尊王攘夷派の巣窟であった長州藩だ。
重臣長井雅樂(1819~1863)が藩主毛利敬親(1819~1871)を説得し、朝廷と幕府が協力して開国政策を推進するという「航海遠略策」を藩の基本政略として定めると、伊藤は大きな不満を抱えるようになった。

 伊藤は松下村塾門下生と徒党を組んで長井暗殺を企んだが、長井が兆候を察知して潜伏することで計画はひとまず水泡に帰した。
伊藤は高杉晋作(長州藩攘夷派の急先鋒、1839~1867)らが組織した秘密結社「御楯組」に加入した後、1862年12月12日東京品川に新築中であった英国公使館放火事件に加担した。
当時年齢22歳であった伊藤は、はしごを使って丸木の垣根を乗り越えるよりも、のこぎりで切って侵入する方がもっと容易いというアイデアを提案した。
伊藤が提案したアイデアで「御楯組」の英国公使館放火計画は大成功を収めた。

 この事件で得意になった伊藤は8日後に国学者塙次郎の暗殺計画を立案した。
塙が幕府の指示で天皇を強制的に廃位させるという先例を調査しているという噂を聞いたためだ。
幕府はこの時、開国政策に反対する孝明(在位期間1846~1866、明治天皇の父王)天皇を廃位させる方案を模索していた。

 伊藤は顔も知らない塙を暗殺するために東京の麹町3番地にある塙の屋敷を訪ねてあらかじめ人相着衣等を調べておくという緻密さも見せた。
そして12月21日の夜、伊藤は山尾という同志とともに麹町近辺に潜伏して、帰宅した塙を襲撃した。
先ず伊藤が塙を刀で切り下ろし、山尾が「国賊」と叫びながら塙を一気に突き刺して絶命させた。
伊藤が塙暗殺に成功すると長州藩は勿論、尊王攘夷派であった水戸、薩摩藩でも彼の名前が広く知られるようになった。

 伊藤がその後、英国に留学し「攘夷派」から「開国派」へ転向した。伊藤はこのため長州藩の攘夷派から数回暗殺の危険に遭遇した。英国公使館を放火し開国派暗殺を敢行した伊藤が反対に攘夷派同志たちから追われるという面倒な局面に陥った。

英国大使館放火事件記念碑。放火実行役として伊藤博文の名前が記録されている。

 伊藤が若かった時、名前を何度も変えた点でも、彼が追ったり追われたりしたテロリストだったという事実をよく知ることができる。
周防の国熊毛郡束荷(そん)(現在の山口県光市)で身分の低い農民の息子として生まれた伊藤の幼名は利助だった。
その後利輔、俊輔等と変えて呼ばれたが、1868年9月大蔵省局長に抜擢された時分に博文と改名した。
「伊藤」という姓も父親十蔵が伊藤家に養子として入って受け継いだものだ。
参考に、「伊藤博文」を今も「いとうはくぶん」と混同して読む日本人も多い。

 こうしてみると伊藤も若い時は攘夷派の「一級テロリスト」として活動した人物だ。
流行語で「幕末のアルカイダ」だったのだろう。
それなのに、どうして伊藤を狙撃した安重根義士は「テロリスト」で、開国派攻撃の先頭に立った伊藤は「東洋の平和の使者」というのか?

 その上、日本が文明先進国ならなぜ日本人は血なまぐさい匂いのする「忠臣蔵」に熱中するのか?
例えば朝日テレビは「春香伝」よりもっと陳腐なテーマである「忠臣蔵」をリバイバルとして2004年10月から連続ドラマとして放映した。
筆者が日本に来て「忠臣蔵」を見たのを数えてみると10回にもなるだろう。

 死んだ浅野内匠頭の仇の恨みを晴らした大石内蔵助をはじめとする47名の赤穂武士たちは吉良上野介の立場から見れば厳然たるテロリストたちだ。
それで庭先での切腹の命令が下されたのではなかったか?
日本人は赤穂武士を義士、烈士として褒め称えながら、我々が安重根を義士として讃えれば問題だとは、これこそ時代を飛び越えることのできない重大な壁だ。

 歴史劇の常連として登場する忍者部隊も今の視点で見ればアルカイダと性格が似ている特殊テロ舞台だ。
変身術を利用して敵陣をかく乱したり敵の要人を毒針などで暗殺したりすることが重要な任務だったためだ。
歴史学者直木孝次郎によれば推古天皇10年(602年)10月に百済の僧侶観勒が日本へ渡り、暦書、天文地理書、とともに「変身方術書」を伝えた。当時日本が変身方術を導入したことは新羅の間諜の参入を警戒したためだ。(《古代日本と朝鮮、中国》、講談社。1988)。

 関川がもし忍者の源流がわが国だった事実を知れば非常に驚くだろう。忍者兵法こそ日本人が独創的に考案した特殊テロであると固く信じていたからだ。


 

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