2005年は乙巳保護条約が締結されてから百周年になる年だった。
また、韓日併合の元凶伊藤博文を狙撃した安重根義士が旅順刑務所で絶命してから95周年になる年でもあった。
安重根義士は伊藤が絶命した日である26日を選び1910年3月26日に絞首刑に処せられた。
絞首刑が執行された時間もわざわざ伊藤が絶命した時間を選び午前10時頃に執行された。
伊藤を狙撃し逮捕されてから5か月後のことだ。
わが国で映画「トマ安重根(洗礼名トーマス、多黙)」が完成して試写会をする頃、日本でも明治大学教授海野福寿か書いた《伊藤博文と韓国併合》(青木書店、2004)という本が出版されて話題を集めた。
どう見れば、韓日両国にとって、伊藤博文の暗殺事件に100年後の始まりとして再度光を当てようとする努力が意味のあることになるのか。
安重根義士が伊藤を暗殺してから100年を超える時が流れたが日本では伊藤を今も「明治の元勲」として褒め称え、安重根義士をいつまでも暗殺犯、テロリストとしてけなしている。
平均的日本人は大陸を流浪していた「ごろつき」として認識している程度だ。
海野によれば日本の国会図書館が近現代政治に関連した人物文献中数多く所管している資料はヒロヒト天皇(850冊)に関するものだ。
その次に西郷隆盛(791冊)、田中角栄前総理(525冊)、伊藤博文(412冊)の順だ。
1963年には伊藤の肖像画が入った千円紙幣が発行されてもいる。
ところで伊藤に対する歴史的評価が日本ではプラスイメージである反面、韓国ではマイナスイメージだ。
即ち一番嫌いな歴史上の日本人を挙げろと言えば韓国人は豊臣秀吉と伊藤博文を挙げる。
その理由を海野教授は具体的には提示していなかったが、努めて日本人がしつこく尋ねたら安重根義士が伊藤を暗殺した後、裁判で並べられた罪状を説明すれば十分だろう。
今後の展開のために安重根義士が陳述した伊藤の罪状をすべて列挙してみよう。
「第一、明成皇后(高宗の妃;訳者注)、を殺害した罪状(1895年10月、明成皇后殺害事件が起こった時、伊藤は第2次伊藤内閣首班だったが、どんな責任も負わなかった)、
第二、大韓帝国の皇帝を廃位させた罪状(1907年7月ハーグ密使事件が発覚した時、伊藤は高宗を強制的に退位させた)、
第三、12か条条約(第2次日韓協約;訳者注)を強要して結んだ罪状(1905年11月伊藤が全権大使の資格で強要した第二次韓日協約)、
第四、義兵を暴徒だと言って無実の義兵家族を虐殺した罪状、
第五、韓国の政治と権利を強制的に奪い取った罪状、
第六、鉄道、鉱山、山林、漁場などを強制的に奪い取った罪状、
第七、日本の第一銀行券を強制的に流通させ、韓国の財政を枯渇させた罪状、
第八、軍隊を解散させた罪状(1907年8月純宗の名を借りて軍隊を強制的に解散させたこと)、
第九、新聞購読を禁止させた罪状、
第十、韓国青年たちの外国留学を禁止させた罪状、
第十一、韓国の学校の書籍を押収し、燃やして捨てた罪状、
第十二、親日五賊と一進会を買収して韓国人が日本人の保護を受けようとしたと世界に宣伝した罪状、
第十三、韓国は1905年以降安寧な日がなく、殺戮が終わらなかったが、太平無事なように装った罪状、
第十四、東洋の平和を永久に壊した罪状、
第十五、日本の天皇陛下の父、太皇帝を殺した罪だ(明治天皇の父王である孝明が天然痘にかかり病死すると、同じ長州藩出身の伊藤と岩倉具視(1825~1883)が共謀して毒殺したという噂が当時広まった)。」
しかし大多数の日本の専門家は今も「安重根が穏健派である伊藤を暗殺することでむしろ韓日併合が早められた」という式の主張を繰り広げている。
作家関川が前に紹介した対談で「私は(安重根が暗殺した)相手が違ったのではないかと考える。」と言ったこともそんな日本の雰囲気を反映しているのだろ。
安重根が暗殺した相手が違ったと言う根拠として日本の専門家がしばしば動揺する例が正に伊藤が絶命する直前に自分を撃った者が朝鮮人という言葉を聞いて「馬鹿な奴だ」といった挿話だ。
しかし伊藤の最後の肉声として伝わるこの発言がどこまで事実だったのだろうか?
海野福寿が書いた本によれば、伊藤のハルピン訪問に随行し絶命の瞬間を目撃した貴族院議員室田義文は日本に帰国した後、1909年12月16日東京地検事務局で次のような要旨で陳述した。
「車内に入るや否や公爵は従者に指示して右足の靴を脱がせた。
その時までは(従者が)足を持ち上げることができたが、左足の靴を脱がせるときには、もうこれ以上そうする気力もなかった。
医者が上衣等のひもをほどいて創傷を検査する時、致命傷だということが一見して明瞭だった。
それで気を取り戻すためにブランデーを勧め、はじめ一杯を飲ませると苦痛もなく全部飲んだ。
正にその時だと思うが、通訳が入って来て、犯人は朝鮮人で直ぐに逮捕したと伝えた。
公爵はこの言葉を聞き取って、「馬鹿な奴だ」と言った。
その間に、注射を打ち始めて5分後に再びブランデーを一杯勧めた。
公爵がもうそれ以上首を持ち上げることができない状態で、口に注ぎ入れてやった。
その後1,2分の間に絶命した。」
これが随行員室田の見守った伊藤の絶命の瞬間だ。時間を計算すると安重根の三発の銃弾が当たった後15分が経過した1909年10月26日午前10時ごろだ。
その間に通訳が列車の車両に飛び込んで来て狙撃犯は朝鮮人だと叫んだことは時間的にいくらでも可能なことだ。
狙撃現場でロシア官憲に捕まった安重根義士がロシア語で「コリア、ウラ(万歳)」と3回ほど大きな声で叫んだためだ。
しかし瀕死の状態に陥っている伊藤が通訳の声を聞いて理解し「馬鹿なやつだ。」と口を動かしたと言う室田の陳述にはどこか作為的なにおいが漂う。
後で話をするが、室田は安重根が伊藤を暗殺した真犯人ではないという事を最初にそして執拗に主張した人物であるからだ。
仮に伊藤が絶命する直前にそれと同じ言葉を吐き出したとしよう。
しかしその言葉の真意は当事者である伊藤以外はだれも推し量ることはできない。
それでも日本の専門家たちは安重根が穏健派である伊藤を暗殺したことで韓日併合が早まったという論拠とするために彼の最後の肉声であるという「馬鹿な奴だ。」という言葉を金科玉条のようにガタガタ騒いでいるのだ。
伊藤の最後の肉声は100年前の裁判の過程でも否認された。
1910年2月10日に開かれた第四回公判で主任検察官として安重根に死刑を求刑した関東都督府高等法院所属溝渕孝雄は「ある証人によれば伊藤公が 凶漢が朝鮮人であることを知って『馬鹿な奴だ』と言ったと言うが、公爵は凶漢の国籍調査が判明する前に死亡した。」と室田の証言を否定した。
作家佐木隆三も《伊藤博文と安重根》(文芸春秋、1992)で伊藤の絶命の瞬間を次のように描写している。
「小山善、随行医師が脈をとってカンフル注射を打ちブランでーを口に注ぎ入れたが、もうそれ以上治療は不可能だった。
『ほとんど即死です。』とつぶやき、茫然自失の医師は別の車両に運搬された森泰二郎(宮内大臣秘書官)の負傷を知って、そちらへ急行した。」
であるから、伊藤は三発の銃弾を受けた時点でほとんど瀕死状態に陥っていたという話だ。
そんな状態で伊藤が通訳の言葉がわかり、「馬鹿な奴だ」と言ったというのは常識的に考えても不可能なことだ。
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