「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳44 8章―② 2度目の韓流、朝鮮通信使の登場に押し寄せた「倭人の群れ」

 17世紀初めから19世紀にかけて徳川幕府は朝鮮の先進文化と文物を導入するために12回にわたる朝鮮通信使一行を受け入れて盛大に接待した。
朝鮮通信使一行(500名前後)が対馬を経由して江戸を往来する間(概略で6か月から1年)25の藩が通信使節を接待しようと支出した経費は幕府の年間予算に匹敵する百万両に達した。
人力も33万名、馬も77600匹が動員された。

 また、正史と副使、従事官等の三使官の食事は朝食、夕食として7、5、3即ち15種類の料理(本膳;日本料理の主料理として7種、二の膳;本膳の次に料理として5種類、三の膳;二の膳の次に出てくる料理として3種類)を、昼食は5,5,3即ち13種類の料理(本膳5、二の膳5、三の膳3)を提供した。
また、黒田藩(今の九州)は朝鮮通信使一行を接待するのに一日に鶏300匹あまり、卵2千個を使用し、千室余りが付属する官舎を新築することもした。
通信使官舎には6個の検問所が設置され、夜には薄い絹で作った提灯117個が設置されたという。

 粛宗45年(1719年)第9回朝鮮通信使製述官として参加した申維翰は朝鮮通信使が通り過ぎていく道端や宿所に、群衆が雲のように群がり集まったと《海游録》に記録した。
通信使一行の行列、衣服、楽器、文章や絵の手並みを見ること、聞くこと、身に着けているものすべてが不思議で何か一つ学んでみようという心づもりであった。

 当時、日本は武士階級が身につけるべき教養として儒教が奨励され、民衆も「寺子屋(江戸時代に流行した私設学院)」のようなところで漢文を学んでいた。
しかし、武士階級と一般民衆の漢文の実力は朝鮮の両班階層と比べひどいものだった。
そのため朝鮮通信使一行としてきた文人、画家たちが泊っている宿舎にも字を書いてくれという人、絵を描いてくれとせがむ人たちで海山のようにたくさんの人出であった。
群衆たちは通信使節が書いて捨てた紙くずを争って拾い上げることもしたし、その上使節の従者たちにも文や絵を描いてくれと群れをつくっていたという。
申維翰はそんな倭国群衆を軽蔑する意味で「群倭」と呼んだ。

 当時の日本の朱子学者中井竹山(1730~1804)は「群倭」達の雷同をひどくふさわしくないものと感じて《草茅危言》(1789年)に次のような記録を残した。

 「虚栄心に浮かれたやからが唱和(詩をお互いにやり取りすること)、筆談の席で恥をさらしている。唐国が認める自慢の者を厳選し、そうした席に参席させなければなるまい。」

 この時の韓流ブームは朝鮮の先進文化や文物を模倣しようとする「模倣のブーム」だった。
500名余りの朝鮮通信使一行が当時のヨン様達だった。
群衆が通信使一行の宿舎に雲のように群れ集まって、無学無知識な従者たちにも文字や絵を描いてくれとせがむ点でその時の「群倭現象」は最近の韓流ブームにそっくりだ。

 2004年11月26日昼、ペヨンジュンが宿泊しているニューオータニホテル前には1000人余りの女性ファンたちが外出するヨン様を見ようと朝から長蛇の列を作っていた。
正午ごろヨン様がホテル玄関で自動車に乗り出発しようとすると女性ファンたちが警察と警備陣の制止を振り切ってお互い押したり引いたりして阿修羅像の顔になった。
その騒動で10名が負傷したということはすでに報道を通して広く知られた事実だ。
朝鮮通信使一行に雲のように群がり集まった「群倭現象」が三百年後にそのまま再現された勘定だ。

 好きな芸能人を追いかける熱狂的なファンたちを「追っかけ」と呼ぶ。ヨン様を一目見ようと羽田空港や成田空港に群がり集まった数千人の女性たち、ニューオータニホテル前で一日中群れを成していた数百人の女性たちが即ち「追っかけ」たちだ。
追っかけの風習は大衆文化が発達し始めた江戸時代に生まれたと専門家は言うが、その源流は朝鮮通信使一行を追いかけた群倭達だったのではないだろうか?

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