「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳58 10章―②軍神乃木希典の実像

 日本では日露戦争勝利百周年に当たり東海(日本海;訳者注)海戦を勝利に導いた東郷平八郎と明治天皇に殉じて自決した乃木希典(1849~1912)を歴史的な偉人として美化しようとする作業の最中だ。
我々はこのような動きを赤提灯の内側で繰り広げられている村祭り程度として軽く解釈してはいけない。日本の再軍備の動きとも密接な関連があるからだ。

 司馬遼太郎の《坂の上の雲》は日本が日露戦争に勝利するまでの過程を描いた長編歴史小説だ。
司馬はこの小説で戦前軍神として崇められていた乃木をどんな戦術、戦略もなく肉弾戦を敢行し、数万の将兵を犠牲にした愚将あるいは鈍将として描写していた。
「乃木は軍事技術者としてほとんど無能に近い人であり、詩人としては第一級の才能を持っていた。」

 乃木は学者の道を歩もうか、軍人の道を歩もうか悩み、23歳の時である明治4年(1871年)11月、陸軍の有力者、黒田清隆(1840~1900)の助力で陸軍少佐として任官した。
乃木は特記するに値する軍隊経歴がない自分に突然少佐という高い階級が付与されると飛び上がるほど喜んだという。
その喜びがどんなに大きかったか乃木は「私の生涯で一番愉快な日がその日だ。
明治4年11月23日は今もはっきり覚えているよ。」という話を口癖のように繰り返して言ったという。

 長州藩出身である乃木は明治8年(1815年)12月歩兵第14連隊の連隊長代理として任命され、薩摩藩出身の西郷隆盛が率いた反乱軍を鎮圧するため熊本に赴任する。
ところが当時弟の正誼はすでに反乱軍に加担していた。
正誼は兄、乃木に西郷の手紙を見せて反乱軍に加担することを勧めた。
しかし、乃木は正誼の誘いを振り切って、そのまま明治政府軍に残った。この西南戦争(1877年)で弟正誼は戦死し、師であった玉木文之進も息子と弟子たちが反乱軍に加担したことに対する責任を痛感して割腹自殺した。
乃木はこの時、自分の故郷の先輩後輩たちが参加した反乱軍を攻撃することを躊躇したが、上層部から無能という非難と共に厳しい叱責を受けた(福田和也、<乃木希典>、《諸君》2004、3月号)。

明治天皇に殉じて自決した理由によって軍神として美化された乃木希典

 乃木の無能は第3軍司令官として任命されて旅順のロシア軍を攻撃する時はっきりと現れた。
当時日本の連合艦隊は対馬海峡でロシアのバルチック艦隊と決着をつけるため命懸けの戦いを展開していた。
旅順に停泊していたロシアの太平洋艦隊がバルチック艦隊と合流することを食い止めるため、日本軍はロシアの太平洋艦隊をまず攻撃することが差し迫ったことだった。
日本軍は背後から旅順のロシア軍を攻略するために乃木を司令官とする第3軍を編成した。

乃木が指揮する第3軍は1904年8月19日旅順北東部に位置するロシア軍要塞に対して総攻撃を敢行した。
しかし、第3軍の総攻撃はロシア軍の激しい反撃を受けて死亡者1万5千名、負傷者が4万5千名に上るというはなはだしい損害を被っただけの失敗に終わった。
その後11月まで三回の総攻撃を敢行したが、厚さ2メートルほどのコンクリートの要塞の中で執拗に防御するロシア軍を制圧することはできなかった。
この時、乃木の第3軍がとった重要な戦術は若干の白兵突撃戦だった。
無謀な肉弾攻撃で数多くの死傷者だけを出してどんな戦果も挙げられず、当時国内では無能な司令官を交替させろという声が高くなって、怒った群衆が乃木の自宅に石を投げ暴徒化した。

 事情がこのようになると、東京の大本営は攻撃目標を旅順北東部から旅順港を見下ろせる西方の203高地に変更し、第3軍の指揮権を満州軍総参謀長、児玉源太郎(1852~1906)に譲り渡した。
乃木から指揮権を譲り受けた児玉は203高地を集中攻撃し1週間ぶりに高地を占領することに成功した。
日本軍はその高地でロシアの太平洋艦隊を陸上の大砲で攻撃し、壊滅させることができた。

 しかし乃木は日露戦争が終わった後、2階級特進し、子爵から公爵に封じられた。
旅順攻防戦で特別な戦功を立てることもできず、指揮権を後輩に奪われた乃木が2階級特進の恩典を享受したことはどんな理由からなのか?
日本の史家たちは明治天皇が乃木をこの上なく寵愛していたためだと解釈した。
乃木は自分を寵愛した明治天皇が死ぬと1912年9月13日、鳴り物が宮城を出てくる頃の夜8時夫人とともに自殺した。

 しかし、乃木夫婦の殉死場面にもいくつかの疑問が提起されている。
作家半藤一利は「それからの坂の上の英雄たち」(《諸君》、2004、3月号)という文で乃木の自殺に関する唯一の証拠資料は警視庁警察医が報告した「死体検視始末書」だけであり、乃木の死に関して明らかにされている事実は乃木が夫人の体に短刀の上から倒れるようにして夫人が死ぬのを手助けしただけだと記述されている。
そうしながら、半藤は司馬の《殉死》、福岡徹の《軍神》、渡辺淳一の《静寂の声》等を読んでみると、乃木夫婦の自殺に関するいくつかの疑問が生まれると書いている。

 例えば司馬の《殉死》は「9月に入ったある日夫人が死ぬのは嫌だ」、「今から長く生きて英国を見て、おいしいものを食べて楽しく生きて行こうと考えている。」という風に乃木夫人静子が割腹を躊躇、拒否する姿を描写している。
《軍神》、《静寂の声》のような作品にも類似した場面が登場する。

 乃木の家で働いていた家政婦も乃木夫婦が死んだ後、「乃木将軍が軍刀を抜いて夫人を突き刺そうとすると夫人が今日の晩だけは許してください。」と大きな声で叫んだと証言したことが知られている。

乃木の殉死事実が知らされると京都大学教授だった谷本富(とめり;訳者注)は当時の新聞に「乃木は自慢する習性やわざと飾ろうとする習性がある。」という要旨の文を寄稿した。
即ち乃木は「~するふりをする習慣」があったということだ。
気の毒なことは、谷本の文に憤激した群衆が彼の家に突入して石を投げ、殺すと脅した。
彼は結局危険を感じて京都大学を辞職しなければならなかった。(<乃木希典>、《諸君》)

 乃木が旅順攻防の時、無謀な攻撃を繰り返して数多くの死傷者を出すと、怒った群衆が東京にある彼の家に昼夜現れて石を投げた。そうしながら乃木が自殺するや否や軍神に推戴した。無能な軍神がある日突然、軍神に昇天したのだ。

 軍神として崇め奉られた乃木の無能が広く知られるようになったのは、司馬が産経新聞に1968年から《坂の上の雲》を連載した時からだ。
ちなみに司馬は産経新聞の大阪本社文化部長出身だ。
司馬は新聞連載の後期で、戦前参謀本部が《日露戦史》を発行した時、乃木を軍神として美化したと非難した。
乃木の虚像を注入された世代がやがて陸軍幹部として出世し、強力な集団を形成したのだ。
彼らが日本の運命を誤った張本人だというのが司馬の主張だ。

 勿論乃木が無能な軍人だったという主張は昭和初期時代を否定しようとするいわゆる「司馬史観」による意図的に誇張されたことだという非難もある。
大阪青山大学講師福井雄三は「《坂の上の雲》に描写されてない戦争の現実」(《中央公論》、2004、2月号)という文で司馬は小説家であり、歴史学者でもなく軍事専門家でもないと断罪した。
そうして福井はロシア戦争後に起こった第一次世界大戦でも白兵戦が敵の陣地を攻撃する重要な戦術だったとし、難攻不落のロシア軍要塞を6万の犠牲者を出して占領したことは大成功だったと主張した。

 しかし日露戦争を美化する作業に熱を上げている産経新聞も2004年初めの連載記事で「乃木は日露戦争で息子二人を戦死させた。そんな悲しみを隠して指揮したことや明治天皇崩御の際、殉死したことから国民から軍神の扱いを受けてきたのだ。反面、旅順攻略の失敗で犯将(敗将)の烙印を押されてきたことも事実だ」と書いている。

 日清戦争中に起きた「旅順虐殺事件」に乃木が加担したという非難も終わっていない。
日本軍が1894年11月旅順を攻撃した時、4日間にまたがって、民間人や婦女子、幼い子供等約6万名を殺害したという主張だ。乃木はこの時、第一師団第一旅団、旅団長として旅順攻撃に参加し民間人虐殺を主導した張本人だという非難を受けている。

 現在、乃木を日露戦争の第3軍司令官として正当な扱いで記述している歴史教科書は《高等学校最新日本史》(明成社)ただ一社だけだ。

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