「明治初期、ひどい窮乏に苦しんでいた長岡藩(今の新潟県長岡市一帯)に救援枚百俵が到着しました。
今の窮乏のために使えば何日も持たないでしょう。
しかし当時の指導者は米百俵を将来の千俵、万俵に増やすため学校を設立する資金として使用しました。
その結果、設立された国漢学校は後に多くの人材を養成しました。
今の苦痛を我慢し耐えてよりよい未来を創るという『米百俵の精神』という言葉こそ改革を推進しようとする今日の我々に必要な精神ではないか?」
これは小泉が総理に就任した後、行った初めての国会演説(2001、5,7)で引用した逸話だ。
読者たちの理解を助けるために補充説明をつけ加えると次のような話だ。
幕末に幕府側に立っていた長岡藩は薩摩、長州藩を主軸とした官軍から3回ほど攻撃を受けて藩全域が疲弊に疲弊を重ねていた。
7万4千石であった藩の収入は三分の一水準の2万4千石に大きく減少した。
それで藩の百姓たちは勿論、武士階級も三度の食事はおろか満足に食べられないありさまだった。
苦境に身を置かれた長岡藩は学者である小林虎三郎(当時43歳)を大参事に任命し藩の再建を一任した。
その時ちょうど近くの三根山藩が長岡藩の苦境を見るに見かねて、武士たちに分けてやれと米百俵を送ってきた。
この知らせを聞いた武士たちは飛び上がらんばかりに喜び米を早く配給してくれと督促した。
しかし藩の再建の責任を負った小林はこの米で学校を建てるとして一粒も分けてくれなかった。
「我が藩の武士は千七百世帯に、家族まで合わせれば8500名ほどになる。
米百俵を等しく分けてやったとしても一世帯が受け取れる量は2桝程度だ。
家族一人一人に計算すれば4合か5合に過ぎない。
この程度の米では一日二日であれば甕が空になるだろう。
私はこの米で学校を立てて人材を養成する。
この道こそ長岡藩が立ち上がれる唯一の道だ。」
大参事小林の命令に長岡藩の侍たちもそれ以上不満を言うことはできなかった。
小林はこの米を資金として長岡の坂之上町に1870年6月、国漢学校を建てた。
そして後には洋学、医学局も設置された。
この国漢学校が長岡市立坂之上小学校の前身であり、洋学、医学局が長岡中学と長岡病院の母体になった。
その後長岡中学は連合艦隊司令長官山本五十六(1884~1945)海軍大将など数多くの人材を輩出した。
小泉総理が国会で救助計画の必要性を力説し、米百俵の逸話を引用すると小林虎三郎に対する一大回顧ブームが起こった。
絶版になっていた《米百俵》が再び復刊され、1943年6月に初めて上演された演劇が再びリバイバルとなった。
とにかく、英文で分からないが、中南米ホンジュラスでも「米百俵」が上演されて話題を集めた。
ホンジュラスのリカルド.マドゥロ大統領はこの演劇に感動して今後米百俵のような学校100校を建てると宣言したという。
事実、小林が一日二日で食べつくしてしまう米百俵を藩の武士たちに等しく分け与えてしまえば、長岡藩の再建は長い年月苦労するかもしれない。
その点で我が国の人たちも「米百俵」の逸話から学ばねばならない点は一つや二つではない。
しかし、米百俵の逸話はどこまでが真実でどこまでが美談なのだろうか?百年前の美談が今になって、拡大再生産されている背景は何だろうか?
そんな疑問を解き明かしてこそ日本が明確に見えるのだ。
小泉総理が米百俵の逸話を国会で引用した後に放送タレント永六輔は長岡藩が苦境に陥ったのは軍備増強の結果だったと指摘し、米百俵は結果論に過ぎない話だと主張した。
即ち当時長岡藩が苦境に置かれたのは官軍と戦うために無理に最新速射銃など高価な武器を購入したことが原因であり、長岡藩が戊辰戦争(1868年政府軍と幕府側が繰り広げた最後の決戦)で負けた後、防衛費を教育費に回した結果が米百俵の逸話が登場する背景だというのだ。
戊辰戦争が起こる直前に長岡藩が置かれた状況は今の日本が置かれた状況とやや似ている。
防衛費が継続的に増加しているが、教育費は続いて減少しているためだ。例えば小泉総理が属している森派会長、森喜朗前総理は産経新聞とのインタビュー(2004、10.16)で米百俵に関する話がでると、このように小泉総理を叱咤した。
「とにかく、(義務教育費国庫負担)3兆円を削減するならば、政府全体から3兆円を各々出せばいい。教育を重視して他の事は我慢して痛みを分け合おうとすれば名宰相だ。
(中略)総理は傲慢な人だと思う。
私とは30年の知己であるが、私は総理が教育の『教』(の字)にも動揺するのを見たことがない。
多分、彼は教育関係会議や部会に出たこともないのだろう。」
森前総理はこのインタビューで小林虎三郎を持ち上げて教育費を削ろうとする小泉総理の二面性に我慢できない怒りをあらわにしたのだ。
もし削減された教育費が防衛費に回されているという事実を知れば、地下の虎次郎もびっくりするだろう。
米百俵が戯曲として作られて東京劇場で初めて上演されたのは1943年6月だった。作家山本有三は長岡中学出身である山本五十六連合艦隊司令長官の目覚ましい活躍ぶりを宣伝し大東亜戦争を美化する目的で米百俵を戯曲に書き、上演したことで知られている。
山本自身も「隠れた先覚者小林」というラジオ講演(1942,5,13JOAK)で「小林虎三郎先生は敗戦後の長岡の人々に向かってすべての人が食べられないから学校を建てるのだ、人材を養成するのだと言いました。私も今日本は勝つために大東亜戦争の指導者になるのだから、人材を数多く育成しなければならない。次の世代を備えなければならないと大きな声で叫びたい。」と扇動した。米百俵が長岡藩を再生させたが、終わったことではなく軍国主義を復活させる場合にも利用されたのだ。
軍国主義を復活させる道具として利用されたという事実も知らず、最近の軍国主義を復活させようという動きと深い関連があるという事実も知らず、米百俵の話を聞いて「日本はある」と叫んでいる韓国人がいればその人は目を開けていても事実が見えない人だ。
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