「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳64 10章ー⑧ 割腹の真相、三島由紀夫の最後

 《葉隠れ》は佐賀藩で隠退した武士、山本(常朝)が武士たちの言行を批判して武士が守るべき規範を口述したものを受けて書き記した本だ。《葉隠れ》は敗戦後も三島由紀夫(1925~1970)が《葉隠れ入門》を著述して再び有名になった。

 《葉隠れ》には「もちを盗み食いしたというぬれぎぬを着せられた息子の腹を裂いて潔白を証明した後、餅屋を切り捨て自分も腹を切った侍」の有名な逸話が登場する。
「葉隠れ武士道」に心酔した三島も結局「切腹」で45年の生涯を終えた(1970,11,25)。

 彼が割腹自決直前に陸上自衛隊東部方面総監室のバルコニーで自衛隊員たちに叫んだ演説をもう一度聞いてみよう。

 「自衛隊にとって建軍の意義とは何か。日本を守るとはどういうことか。日本を守るということは、天皇を中心とした偉大な歴史と文化と伝統を守ることだ。よく聞け、よく聞け。

 今、私が、日本人が、自衛隊が立ち上がらねば憲法改定はない。
諸君は武士だ。
武士ならば自身を否定する憲法をどうして守れるだろうか?
諸君の中に一人でも私と一緒に立ち上がる者はいないか?
一人もいないな。私は死ぬ。諸君が憲法改定のために立ち上がらないことが分かった。自衛隊に対する期待は今やなくなった。

そうなら、ここで天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳、万歳、万歳。」

 この時、自衛隊員たちが三島の演説をおとなしく聞いていただけではなかった。
三島が自衛隊員たちを気概のない奴らだと罵ると彼らも「降りて来い」、「引っぱり出せ」、「狂ったやつ」、「銃でバンとやってしまえ」と叫んだ。

 三島は自決する3年前である1967年4月、46日間自衛隊に体験入隊した。
先ず、陸上自衛隊幹部候補生学校に入校した後、富士山に設置された富士訓練学校を経て習志野第一空挺団に入隊した。
自衛隊体験入隊を秘密に付すために三島はレンジャー訓練期間中には本名である平岡(きみ)(たけ)を使用したという。

 彼は自衛隊に体験入隊した理由をこのように明らかにした。

 「私が陸上自衛隊に期待することは海外派兵を考えることができない現行憲法下で唯一可能性がある戦争は国土戦であり、蓋然性が高いのは間諜の侵略であり、間諜の侵略を防御する主翼が陸上自衛隊だと考えたためだ。」

 三島が今生きていたなら80代の老人だ。しかし彼はこの半分ほどの年45歳で自ら命を絶った。
今考えると、彼の死は間違いなく犬死だ。
なぜって?彼が永遠に不可能なことと分かっていた海外派兵は彼が死んで21年ぶりに初めて機会が訪れた。
自衛隊が自衛軍とか国防軍として生まれ変わるのも今や時間の問題だ。
天皇を正式国家元首とする「天皇制国家」が復活する日も遠くない。
こんな事実が分かれば地下の三島も自身の死があまりにも性急だったと嘆くのは明らかだ。

 ちなみに防衛庁はさる2000年5月、三島が自決した市谷駐屯地、即ち昔の陸軍省の場所から庁舎を移転した。
総工事費約2千500億円をかけて完工した新庁舎は六本木区庁舎の3倍の規模(23ヘクタール)で、本建物(本庁舎?)が地上19階、地下4階に達する。
防衛庁はまた、内閣府直属の「庁」で独立した「省」として昇格することを夢見ている。
戦争前の陸軍省より規模が数倍大きく、はるかに重厚に装われた新しい陸軍省建物の雄姿を見れば、地下の三島も十分だと思うだろう。

 新渡戸は《武士道》で侍たちの割腹慣習を次のように説明している。「切腹は単純な自殺方法ではなく法律上または礼法上の制度だった。
中世に登場した事で、それは武士が罪を負い失敗を謝罪し、羞恥に直面して自分の誠実を証明する方法だった。
それが法律上の刑罰として下された時は荘重な意識で執行された。それが武士の洗練された自殺だった。」

 山本博文の《切腹》(光文社、2003)によれば中世以後一般的に侍に対する処罰は斬首、抵抗する者には撲殺という刑罰が下された。
割腹刑が定着した時は侍の身分が確立した江戸時代からだ。
初めは侍たちの自主的な自決手段として流行したが、だんだん主君の命令を受けて執行された。

 有名なのは「忠臣蔵」に登場する47名の割腹だ。首謀者内蔵助は割腹命令が下されると「幕府の処分に感謝する」という言葉を残した。
斬首ではなく侍としての名誉である割腹が許されたからだ。
しかし、歌舞伎に出てくる場面のように、実際に彼らが腹を切ったのではない。
山本によれば熊本藩の細川家にゆだねられた17名は順番に割腹をさせる時間的余裕がなくて刀を腹に当てたのを合図に首を切り落とすという方法で切腹儀式が執行された。

歌舞伎の古典《忠臣蔵》の赤穂武士割腹場面

 切腹儀式は明治政府が藩を廃止して侍が刀を身に着けることを禁止して以後有名無実となった。
しかし、江戸時代切腹の伝統は「日本人が落ち度に対する責任を負う方法」として今も生き残っている。
西武グループの有価証券虚偽記載事件を巡る西武鉄道社長と総務部次長が自殺した事件がいい例だ。
即ち江戸時代のように西部藩の侍(雇用社長と従業員)が腹を切って主君(社主 堤義明会長)を保護するのだ。
ロッキード事件の時も田中角栄総理の運転手が自殺し、リクルート事件の時は竹下登総理の秘書が自殺し、主君を生かした。
反面韓国では現代グループのチョンモンホン会長が対北送金問題で自殺した。これは家臣ではなく主君がすべての責任を負う挺身的な割腹だ。
「落ち度に対する責任を負う方法」が日本とは対照的だ。

 江戸時代の武士道は昔の日本の軍隊に継承された。
しかし、昔の日本軍は侵略や戦術上の過ちを現場の兵士と司令官に擦り付ける式に武士道を悪用してきた。
例えばノモンハン事件の敗北を現地司令官に責任を負わせて自決を命じたことがいい例だ。
ノモンハン事件という1939年、日本軍が中国と蒙古国境でソ連軍を甘く見て無謀な攻撃をして、大敗した事件だ。
上の責任を下に転化する方便として利用されたのが日本軍の「狂信的な武士道」だったのだ(前出の本、227ページ)。

京都で行われる侍行列の儀式(時代まつり;訳者注)

 旧日本軍大本営は天皇が切迫していると本土決戦を叫び、「1億総玉砕」を督励した。
陸軍首脳部は内地人即ち2千万名を犠牲にすれば米軍との本土決戦にも勝利することができると長談義したという。
これは当時全体人口の約5分の1に該当する数字だ。
もし軍部の計画のまま本土決戦が起こって2千万名が犠牲になっていたら、戦後日本の繁栄はなかったはずだ。

 しかし、実際ヒロヒト天皇が無条件降伏するといういわゆる「玉音放送」を出すと実際に自決した日本軍首脳部は阿南(あなみ;訳者注)陸軍大臣、第一総軍司令官杉山元帥、肉弾攻撃の立案者だった大西中将等数十名に過ぎなかった。
太平洋戦争の主役東條英機が拳銃自殺を企てたことは降伏してからひと月ほどが過ぎた9月11日だ。

 戦争を起こした時、先頭に立って協力した官僚たちも降伏してからひと月が過ぎるまでにだれも自決した者がなく、民衆の大きな怒りを買った。全国を回って1億総玉砕を説いた平泉澄東京大学文学部教授は敗戦後故郷に帰って神社の宮司として十分に過ごして89歳で死んだ。
彼が良心の呵責を感じてとった行動は敗戦二日後に東京大学に辞表を提出した事だけだ。

 反対に「投降せず、最後まで戦おう」という戦陣訓をありのままに覚えていた横井軍曹と小野田少尉は敗戦後30年余り南方ジャングルに潜んでいた。
それから再び30年が過ぎた2005年5月日本兵二人がフィリピンミンダナオ島で発見されたとして再び大きな騒動が起こった。

 一旦ハプニングとして明らかにされたが、1974年3月フィリピンルバング島で発見された小野田少尉は日本政府が支給した慰労金100万円を靖国神社に寄付してブラジルへ移民し農場を経営している。
小野田は「祖国のために命をささげた戦友たちに敬意を示さない戦後日本社会に失望したため」と言って移民の経緯を明らかにした。
しかし、本当の理由は「玉砕は許さない。3年経ち、5年経っても最後まで持ちこたえろ。」と自分に命令した昔の上官が少し早く本国に帰国して悠々自適の生活をしていることを知って大きな幻滅を感じたためではないだろうか?

 天皇の責任をないものとして覆い隠してしまった戦後日本の土壌も「上の者の責任を下の者に回す」という日本軍の献身的な武士道がその根源だ。
ヒロヒトは1975年9月敗戦後初めて米国を訪問した時自分の戦争責任について質問され、「私は文学的な方面については研究していないために質問の意味が分からない。」としてお茶を濁した。

 ちなみにヒロヒトが死んで3か月後に毎日新聞が実施した世論調査によれば(1989,4)、全体応答者の35%がヒロヒト天皇に戦争責任がないと回答した反面、戦争責任があると回答した応答者は31%だった。
もしヒロヒトが病床で闘病生活をしていないでそのまま死んだなら「ある」という答えが「ない」という答えを上回っただろうという衆論が支配的だ。
即ち闘病生活が半年ほど続くと戦前のような自粛の雰囲気が形成されて「ない」が「ある」を上回るようになったということだ。

 天皇に戦争についての責任があるかということについては今も論難が入り乱れている。
被爆地長崎の本島市長はヒロヒトが死んだ翌年1月「天皇にも戦争責任がある。」という発言をしたが、右翼の銃撃を受けて重傷を負った。
民主党の岡田克也当時代表と菅直人前代表も2005年5月相次いで「日本自体が敗北した戦争を起こした責任を何一つ追及しなかった。」と反省し、「天皇に直接的な政治責任がないとしても、敗戦時に退位して戦争責任を明らかにしなければならなかった。」と主張した。
右翼が今回もどんな報復を加えるか見ることだ。

 戦犯たちの戦争責任も有名無実になった。
江戸時代の武士たちはちょんまげ(日本式まげ)を切られても侍としての名誉が失墜されたとして腹を切った。
まして数千万の命を犠牲にした侵略戦争を起こし負けた将帥たちにどんな責任も負わせない態勢は伝統的な武士道精神を自ら辱める行為だ。
それでも日本の右翼勢力はA級戦犯を「侵略戦争を起こした首魁者」ではなく、「極東軍事裁判の犠牲者」として美化し靖国神社の分祀を必死に反対している。

 前東京大学教授丸山真男はかつてこんな日本社会の矛盾を「無責任の体系」と定義した。
責任をお互いに転化しだれも責任を負わないことが日本社会という話だ。

 ルースベネディクトの《菊と刀》によれば、唯一絶対神を信奉する一神教文化は「罪の文化」だ。
神の戒律に違反すれば神の怒りを受け罰せられる文化だ。
反対に唯一絶対神がない多神教の国日本は世間体(体面)を重視する「羞恥の文化」だ。
「羞恥の文化」に基づく道徳はその場所に人がいるかいないか、いればどんな人がいるのかによって基準がその折々変わる。
それなら戦争責任の所在がうやむやなのは道徳の基準がいつでも変わるというこの羞恥の文化のためなのだろう。

  日本の武士道精神が復活するとしても新渡戸の求道的な「武士道」が復活するなら心配することはない。
好戦的な「葉隠れ武士道」や上の者の責任を下の者に転化する昔の日本軍の「狂信的な武士道」が復活しようとするため問題であるのだ。
「狂信的武士道」の復活は「人類の祝福」ではなく、「人類の災難」だからだ。

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