「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳66 11章ー② 弓

 そうであるなら、韓半島に住んでいた人たちは日本をどのように眺めていたのだろうか?

 《三国史記》の<新羅本記>には「倭人が対馬に営舎を設置し、兵器や軍糧を貯蓄して我々を襲撃しようとした。」という記述が登場する。
また、「三国史記」の記述を総合すると紀元前50年から西暦500年までの550年間、新羅は倭国から32回ほどの侵入を受けて、首都慶州も5回ほど侵攻された。
新羅30代文武王が東海沖の洞窟に水葬しろと遺言を残したことも死んで霊となり倭寇の侵略を食い止めるという意志だった。

 一方、新羅の海賊たちも九州を襲撃し絹や綿織物を略奪してきた。
即ち869年新羅の海賊船2隻が出現して博多港を襲撃したという記録が残っている(《日本三大実録》)。
少し前のことでも福岡地方には「むくりこくりが来た」と言えば泣く子も黙るという逸話が残っていた。
むくりは蒙古、こくりは高句麗ということで、歴史学者森浩一は《日本理解への道》(中央文庫、1987)という対談集で「こくりは高句麗ではなく新羅の海賊である可能性が大きく、それほど新羅海賊の被害が大きかった。」と主張した。

 倭寇の蠢動は特に高麗末期に激しくなった。
扶余、蒙古連合軍の日本遠征以後高麗との通行が断絶し、日本も南北朝の動乱に陥って、九州と対馬に対する統制が取れなくなったためだ。

 倭寇の出没や征伐の過程についての詳しい記述は歴史家に任せる事として、ここで筆者は朝鮮人強制連行の出発点は倭寇だったという事実を強調したい。
記録によれば、1398年高麗軍は100隻を引き連れて対馬を攻撃し倭寇たちの船300隻を燃やし、捕らえられた朝鮮人100人余りを救出した。
世宗元年にも三軍都體察使(反乱を征討する軍の指揮官;訳者注)イジョンムが対馬を征伐し拉致された朝鮮人たちを連れて帰った。

 新羅時代から我々が被った倭寇の被害を考えるとその数は計り知れない。
それでも日本は14世紀中葉に活動した倭寇船団員の8割以上が元と高麗に不満を抱いた南部朝鮮人たちだったと主張している。
その根拠として倭寇船団員たちが韓半島南部の襲撃地点の情報を熟知していたという事実を挙げた。
扶桑社版歴史教科書も「倭寇という朝鮮半島と中国大陸沿岸に出没した海賊集団を指す。
彼らの中には日本人のほかに朝鮮人も多数含まれていた。」と記述している。

 壬申倭乱、丁酉災乱の時には総人口の約2%に当たる15万から20万名余りが日本に引っ張られてきて、ヨーロッパに奴隷として売られていくこともあった。
日帝時代強制連行された朝鮮人も数百万名に及ぶ。

 地図を広げると日本列島は太平洋方向に背を曲げて我々に向かって弓のようにしなっている。
しかし、西尾幹二は《国民の歴史》(40ページ)で正反対の主張を繰り広げている。

「多分この列島は言語的にも人種的にも太平洋方向に体を向けていてわずか1600年か1700年前の近い過去に文字を利用して中国大陸とつながった。(日本文明は)大陸とは浅い縁をもつ別個の文明だ。」

 わが国から日本列島を眺めると2国の間に挟まっている東海は海だというより大きな湖に近い。
弓のようにしなった日本列島が東海を屏風のように取り囲んでいるからだ。
このような地政学的な事実を無視したまま日本列島が韓半島とユーラシア大陸を背にして横たわり太平洋側から文明が渡ってくるのを待っていたと言う話は一考の価値もない詭弁だ。

 勿論そんな詭弁を西尾が初めて持ち出したのではない。
今は死語に近いが、明治以後日本では日本海即ち東海に面した地域を「裏日本、(背面の日本)」と呼んだ。
反面、太平洋側に面した地域を「表日本(正面の日本)」と呼んだ。

 《裏日本はいかにつくられたか》(安部恒久,日本経済評論社、1977)によれば「裏日本」は主に北陸(富山、石川、福井、新潟県の総称)、山陰(鳥取、島根、山口県の総称)地方を指し示す別称だ。
《広辞苑》によれば山陰地方に兵庫県、京都府の日本海側を含む場合もある。

 明治時代の地図によれば太平洋側に面した京都府、大阪府などを「表面」として分類しているが、古代日本と韓半島は日本海ルート、玄界灘、瀬戸内海(本州、四国、九州に囲まれた内海)ルートを通して交流が成し遂げられた。

 それでも明治以後、即ち太平洋側を通して西洋文明を受け入れて近代化に成功すると、日本人は太平洋側に向いた地域が日本の正面玄関に当たるとしてそちらを「表」と呼んだ。
反面、韓半島や中国大陸に向いた東海(日本は「日本海」と表記する)側は近代化が遅れた地域だとして差別し「裏(後面)」と呼んだ。

 しかし考えてみよ、古代日本が渡来人や漢字、仏教など各種先進文物を受け入れてきた数千年間の正面玄関は太平洋側ではなく、日本海側だった。例を挙げれば、邪馬台国(2世紀後半から3世紀前半にかけて倭に存在した最強大国。九州地方に位置したという説と畿内(今の京都一帯)地方にあったという説が今も対立している)。
大和朝廷(日本最初の統一政権)が太平洋側ではなく東海側に隆盛、発展した事実は日本人ならば誰も知っている歴史の常識だ。
日本という国号が成立した7世紀末以後の1300年に限ってみても日本の正面玄関は少なくとも1000年以上を通じて東海側だったということも明らかな歴史的事実だ。

 それでも日本人はいつも「玄関」と「後門」を錯覚して間違いを起こしてきた。
言葉を変えれば韓半島と中国大陸を通して先進文明を受け入れてきた間にも日本はそちらを後門だと錯覚し、いつも侵略の矢をしきりに射てきたという話だ。

 筆者は日本人のこのような侵略の性根は日本列島の形状から始まったと主張する。
日本列島が弓のように曲がっているので、彼らは東海に向かって、太平洋に向かって、際限なく弓の弦を引いていたいということだ(読者の中には日本列島の形から見て矢が進む方向は韓半島の方向ではなく太平洋の方角だという疑問を提起するかもしれない。しかし、日本と日本人の特徴―曖昧模糊であること、本音と建て前、劇場国家―は本来日本列島の形状に起因するのであり、日本列島の形状も自由自在に変わるというのが筆者の見解だ。)東海の方に射った矢が我々に向かった6回(白村江の戦、倭寇の蠢動、壬辰倭乱、丁酉の乱、日清戦争、植民統治)の侵略であり、太平洋に向かって射た矢が太平洋戦争なのだ。

 扶桑社版中学校歴史教科書が「韓半島は日本列島に向かって目標を定めた腕」だとまた再び扇動している以上、日本列島の人々の対韓半島意識は大きく変わらないだろう。
そのために我々はいつも日本列島を弓であるかのように警戒し、いつ弓矢が再び飛んでくるかと鋭意注視しなければならい。
それは韓国と日本列島が韓国と日本列島が持っている地政学的必然だ。

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