「ここが故郷ですか?」「私は横須賀(神奈川県)で生まれて、ここ鹿児島は父の故郷です。」
これは2004年12月17日午後、鹿児島県指宿市で開かれた日韓頂上会談の時ノムヒョン大統領と小泉総理が交わした徳談(正月に交わす幸運や成功を祈る言葉)だ。
鹿児島県県庁所在地鹿児島市は征韓論を主張した西郷隆盛が生まれた所だ。
薩摩半島の最南端に位置する指宿市周辺には戦争前、神風特攻隊の基地であった知覧飛行場があった。
その飛行場の地である川辺郡知覧町には1,2時間の距離にある加世田市にも昔の日本陸軍最後の特攻基地であった万世飛行場があった。
その場所には今「加世田市平和祈念館」が建っている。
青瓦台はなぜよりによってそんな場所を選んで開くのかという反対世論が起こって、日本側に場所の変更を要求したが拒絶されたことがあった。当時日本側の主張はこうであったという。
「鹿児島が征韓論を主張した西郷の故郷だと難色を示せば、西郷の銅像が立っている東京でも頂上会談を開くことができないということだ。
豊臣秀吉の出身地である愛知県、彼が築造した城がある大阪、伊藤博文の故郷の山口県、西郷とともに征韓論政変を起こした江藤新平(1834~1874)の滋賀県、板垣退助(1837~1919)の高知県……。
韓国側がこのようなやり方で根掘り葉掘り問いただせば、日本列島では頂上会談を一回も開くことができないだろう。
それでも良ければ、仕方がない。」
日本側の主張に韓国側がどのように反駁したかはよくわからないが、朝日新聞の報道によれば、(2004,11,5)指宿で頂上会談を開催することに関する執念を見せた人は他でもない小泉総理自身であった。
小泉総理はなぜ日本列島最南端に位置する指宿市で、それも人口3万に満たない小都市で韓日頂上会談を開催することに執着したのか?
父親の故郷だから?
父親の故郷が日本列島の最南端、鹿児島なら小泉総理の選挙区はなぜ東京近郊の神奈川県横須賀なのか?
このような疑問に解答をもらおうとすれば、まず彼の家系図を調べなければならない。
小泉が総理として選出された直後、出版された《小泉純一郎を読み解く15章》(文芸(旧字で)社、2001)によれば、小泉の父親、純也は鹿児島県加世田市で漁業に関連した事業をしていた鮫島一族として生まれた。
一族は事業に失敗し、小学校を卒業するとすぐ百貨店に勤務しながら夜間学校に通った。
その後東京に上京して、国会議員秘書を務めながら日本大学夜間部に通った。
やがて純也は逓信大臣、小泉又次郎の秘書として仕事をしていた一人娘芳江と気が合って恋に落ちた。
しかし、又次郎は「政治家には娘を絶対嫁がせない。」と言って二人の結婚を必死に反対した。
又次郎の強い反対にぶつかると芳江は家を飛び出して純也と同居を始めた。
当時としては、型破りな婚前同居を始めたのだ。
又次郎は仕方なく、純也が国会議員に当選すれば結婚を許すと譲歩した。
純也は故郷である加世田へ戻り、国会議員選挙に立候補した。
千辛万苦の末に(苦労の末に)2回目の選挙で当選した純也は正式に結婚式を執り行って、又次郎の婿養子に入った。
二人はその後、長男純一郎を頭に2男3女をもうけた。
敗戦後、純也は鈴木貫太郎(1867~1948)内閣で内閣参与を務めた前歴が問題になって、公職から追放された。
その後、公職追放令が解除されると、純也は故郷加世田の選挙区を捨てて義父、又次郎の地盤横須賀で国会議員出馬し、当選した。
そして、池田内閣、佐藤内閣で防衛庁長官を務めて、65歳で他界した。
前にも述べたように小泉の父純也の本来の故郷は鹿児島県加世田市だ。旧日本陸軍に属していた最後の特攻基地だった万世飛行場のすぐ近くだ。また加世田から1,2時間の距離には神風特攻隊の発進基地だった知覧飛行場がある。
小泉は父の故郷を訪問するたび必ず知覧の神風平和会館に行き、そこで展示されている特攻隊員たちの遺書を読みながら涙を流したと言う。
また4年前のある報道によれば、父のいとこが太平洋戦争末期に神風特攻隊員として沖縄に出撃して戦死し、今は靖国神社に合祀されているという。
前出の本によれば小泉総理の愛読書は彼が20歳の時に読んで感動した海軍予備学生14期遺稿集《ああ、同期のさくら》だ。
海軍予備学生14期は海軍神風特攻隊員として選ばれ、大部分が戦死した。
小泉の父が生まれた鹿児島県は幕末、薩摩藩が支配していたところで、明治維新の功労者西郷隆盛、大久保利通(1830~1878)らを輩出した所でもある。
現在の鹿児島市加治屋町近辺が正に彼らの出身地だ。
それで、加治屋町がなかったならば明治維新は成功できなかったという話があるほどだ。
小泉の家系図
又次郎(前逓信大臣)ーーーーーーはつ
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芳江ーーーーー純也(婿養子、前防衛庁長官)
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長女 (私設秘書) 次女 三女(政策秘書) 長男(純一郎) 次男(私設秘書)
|ーーー宮本佳代子(1982年9月合意離婚)
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長男(孝太郎) 次男(進太郎) 三男(宮本佳長)
注; 又次郎は1865年鳶職(中間卸売商の間にいて、手数料をもらう職業)に従事した家系の次男として横浜で生まれた。背中に大きな竜の入れ墨を入れる程、若い時は血気盛んで知られている。そのために又次郎は逓信大臣になると「入れ墨大臣」と呼ばれたと言う。
鹿児島地方の人たちは明治維新を成功させた人たちが薩摩藩から大挙輩出された歴史的事実を自慢する様子だ。
今も自分たちを「九州男児」とか「薩摩隼人(古代九州南部に居住して、大和政権に反抗していた人々、ハヤヒトとも発音する)」などと呼んで郷土愛が強い。
自民党の元老、山中貞則議員が2004年2月20日、82歳で他界した時のことだ。
小泉総理が「私の父も山中議員のように薩摩隼人として大きな誇りを持っていて、父と同郷である山中議員から生前いろいろと援助を受けた。」と明らかにし、自身が薩摩隼人の後裔であることを自慢する様子を筆者はテレビのニュースで見たことがある。
小泉総理は国会議員に当選した後、絶えず靖国を参拝してきた。
自民党総裁選挙に出馬した時も、知覧の展示館を訪ねて長い間涙を流したという。
厚生大臣時代にも8月15日の靖国参拝を公式日程に組ませたほどだ。
こうしてみると小泉総理が靖国参拝に執着するのは、彼の家系図と密接な関係があることがわかる。
即ち父親が知覧特攻隊基地近くの加世田市出身であり、父のいとこが特攻隊員として戦死し靖国に合祀されている関係で、若い時から神風特攻隊を崇拝して靖国信仰を固く信じてきたということだ。
小泉総理が韓日頂上会談に場所として指宿に固執したのは、朝日新聞の報道が事実であれば、我々の政府は最後まで場所変更しようという要求を貫徹しなければならなかった。
指宿が小泉総理の靖国参拝と密接な関連がある聖地だったからだ。
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