オーストラリア原産のシダレハナマキ
シドニーに住む11ヶ月の孫にようやく会える。
渡豪の準備の中、オミクロン株のニュースが流れた。海外からの入国を厳しく制限していたオーストラリアが渡航制限を解禁した矢先だった。
行けないかなと思った。けれど準備だけはしておこうと考えて、奔走していた。オーストラリアが渡航制限を緩和する意向を発表していたからだ。
揃えた書類はETA、コロナワクチン接種証明書、出発72時間以内のPCR検査陰性証明書。
オーストラリア在住の娘が、親が来豪することを許可してもらう申請を出して許可が降りたのが、出発予定日(12月14日)の数日前という危うい状況だった。
不安を抱えながら、12月14日午後6時40分のJAL51便に搭乗した。空港の出発ロビーも機内も乗客の姿はまばらで閑散としていた。
結局、12月15日からは日本からの渡豪が解禁されたのだが、シドニーに到着したのがその当日の15日だった。
シドニー国際空港では予想していたほどには入国審査は手間取らなかった。
(羽田空港の航空会社のカウンターで必要書類をすべてチェックされていたからだろう。そのチェックには結構時間がかかった。)
出発前は空港でどんな対応を受けるのか心配していたが、スムーズに通過できてほっとした。
出口には、娘の夫が迎えに来ていた。挨拶する間もなく、一人の女性がマイクを片手に近づいてきた。インタビューを受けることになった。隣にいたカメラマンがカメラを構えている。この状況に一瞬戸惑ったが、この日が日本、韓国などからの観光が解禁されたためかと気づいた。
娘の夫がインタビューを受けたが、私がどういう事情でオーストラリアに来たのか聞かれたそうだ。その他にも娘と彼のなれそめや孫のことなども聞かれたという。
あまり聞かれたくなかったが、オーストラリアが、制限はあるけれども久しぶりに国境を開けたこともあって、やむを得ないかなと思った。
ところがこの後すぐに、時事通信の者だという男性が話かけてきて、同じようなインタビューを受けることになってしまった。
到着した人の少ない中、たまたま最後の方に、のこのこ出口から現れた日本人らしき高齢の女性(私は70歳)がめずらしかったのだろう。経験したことのないインタビュー攻め?に遭遇して、無事到着した安堵感より緊張感が先立ってしまった。
娘の家に向かう頃になって、ようやく孫に会えるという期待と人見知りで泣かれないかという不安の気持ちに切り替わった。
24時間以内にPCR検査を受ける決まりになっているので、その日のうちに近くのクリニックで検査を受けた。唾液をとったその棒を鼻の奥に差し込む方法だった。その日のうちに「陰性」というメールが届き一安心。6日目にもう一度受ける決まりだ。さらに12日目も受けるよう推奨された。
次の日、3日間の自主隔離を確認するための電話がかかってきた。到着後3日間はホテルか自宅で待機しなければならないのだが、自宅の場合、家族と別の部屋で過ごし、家族とも接触してはいけない決まりだ。もちろん外出禁止。確認の電話は、私が英語では応答できないので通訳が仲立ちをした。
聞かれたことは到着日時、NSW州から入国後の規定事項について説明を受けたかどうか、PCR検査の実施状況、待機場所、ワクチン接種、出発前のPCR検査、入国前にリスクの高いといわれている国に滞在したかどうか、入国後NSW州以外の場所へ旅行したかどうか(他の州にはまだ行けない)など、懸念されるすべての項目について詳しく聞かれた。そして、今の説明で分かったことを復唱しなくてはならなかった。復唱できなかった決まりについては再度説明された。
覚悟はしていたが、入国しても緊張は続いていた。
孫に会うのは今でなくてもという思いもあったが、今後もコロナウイルスは変異して人類を脅かすのではないかと考えると「ウイズコロナ」の生き方を模索していかなければならないだろう。
だからオーストラリア政府が規制緩和した今は多少の不安はあったが、できるだけの感染対策をしたうえで来ようと決心した。
オミクロン株の拡散を懸念している中、ここまでして来たことの意味を考えると、今の自分の心境は複雑だ。
ただ、11カ月になる孫に初めて対面した時、心配していたように泣かれもせず、まるでずっと会っていたかのように、自然に私の胸に抱かれて、にこにこと笑っているので嬉しかったし、ここに来られてよかったと思った。
そして妊娠から出産、育児に母親の手助け無しに頑張ったきた娘を少しはねぎらうことができたかなと思う。
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