- 凡例 1 この本は日本の文献と日本の記録に基づいて書かれたため、日本語固有名詞は我が国の外来語表記法と異なるが、なるべく日本式漢字を括弧の中に表記した。日王(天皇)の名称も「天皇制」という制度的側面を考慮し「○○天皇」というように表記した。
2 本文中の各章見出しは特別な見出しがない限り著者の取材と研究の結果として新しく作成したものである。この資料を利用するためには著作者及び出処を表記しなければならない。
1章 日本と日本人の壁
川端の日本、大江の日本
朝鮮時代の先賢たちはもちろん21世紀の現代人たちまで板に打ち込むように「日本はある、ない」論争を繰り返している理由は何なのか。それも400年以上も。これは日本と日本人の実態や方向性を把握するのが難しいところに起因している。日本人自身も「日本とは何か」を戯言のように反復しているのではないか?
蜃気楼を追いかける「日本はある、ない」論争
日本と日本人に関する本は数限りなく多い。西洋人、東洋人もちろん日本人が書いたものまで合わせればざっと数千冊、いや数万冊を超えるだろう。しかし日本人自身もまだ自分たちの正体については明確な解答にたどり着けていない。それで今も「日本人とは何か」を寝言のように自問自答している。
たとえば「国民的歴史作家」としてあがめられている司馬遼太郎(1923~1996)は日本や日本像を探求することに全生涯をささげた。司馬が死んでから10年余り経つが今も「日本人とは何か」と同じ題目を掲げる本は大水が押し寄せる如く出回っている。
筆者も20年余り日本で生活しながら「日本人とは何か」をじっくり考えてきたが、どんな糸口も探し当てられずに今に至った。一言で、日本を知れば知るほど不可知論に陥る。即ち実体験に立脚した感覚的な経験だけが認識されるのみで、その背後にある客観的な実態は認識することができないという話だ。
日本の地を一度も踏んだことのないルースベネディクト(1887~1948、米国の文化人類学者)の《菊と刀》は今も日本人論の古典としての座を保っている。日本にほんのちょっと触れた韓国人たちも大げさにもっともらしく「日本はある、ない」などと声を張り上げている。このような場に20年余り日本で生活している筆者が出遅れて日本、日本人論に挑戦しても、そんなに後ろ指さされることではないだろう。
しかし、日本や日本人について論じようとすることがこの本の究極の目的ではない。個人的な旅行記や滞在記を披歴してみようということでもない。新幹線よりはるかに速い「光の速度」で変わっていく日本をありのままに見据えて韓日関係の未来を見つめることが筆者の目指す最終目的だ。
断言すれば朝鮮時代や当代の韓国人たちがやってきた、またやっている「日本はある、ない」論争は内容のないものだ。なぜならば、日本人は蜃気楼のように随時姿を変えて来た、また変えているためだ。
一人の大衆歌手が日本を何度か往来していたが、親日派を自負していたことがあった。その韓(大韓帝国)末の親日派たちも日本の一側面だけを見てそれを信じたが、結局理解できなかった。最近新しく出てきている親日派もその韓末の彼らのように日本や日本人の真の属性を理解できないことが特徴だ。
彼らは日本を客観的に正しく理解しているという意味の親日派では決してない。日本に関する本を何冊も読んでみて、日本に何回も行ってみたけど、韓国で聞いていた日本とは違っていたのだよという風な「短期養成親日派」達だ。これは彼らだけではなく日本や日本人に初めて接した韓国人達なら大抵経験する錯覚現象だ。ここで筆者が言う親日派は日本を少しも知らずに「日本、日本」という者たちだ。
筆者が見るところ、日本はあると主張する人達は日本の建前(立前、建前、表面的な原則、うわべの心)、即ち表面だけ見て日本を論じようとする過ちを犯している。「ヨン様ブーム」や「韓流ブーム」が韓日間の壁をすっかりなくしてくれるものだと錯覚する人達も同じ部類の人たちだ。
日本はないと主張する人達はやはり反対の錯覚現象に陥っている。推測すれば、「日本はない」という日本論がわが国で流行し始めたときは壬申倭乱以後朝鮮通信使一行が日本を訪問して帰ってからだ。
その代表的人物が9次朝鮮通信使製述官(詩や文を書く官吏)として日本に行って後《海游録》を残したシンユハン(申維翰)だ。シンユハンは1719年4月から1720年1月まで10か月にわたって使行日記を3巻に分けて記録したが、この日記で、文筆が不足し文明水準が遅れて未開な国として日本をけなした。
司馬遼太郎が「野蛮国探検記」だと呼ぶほどだ。
司馬に従えば、儒学者申維翰は当時日本列島で芽が出ていた商品経済に全く理解を持たず、このような商品経済の成長が将来朝鮮に害を及ぼすという予測能力も持ち合わせていなかった。
申維翰はまた、武士、町人(町人、商人、職人階層)、富裕層、庶民等の階層によって、職業によって、地方によって当時の日本人たちの価値観が多様である事実に全く気付くことができなかった。
したがって、半年が過ぎて日本を振り返ってみても、彼は儒教文化の物差しでだけ日本を見てしまい、倭国の社会の底辺で起こった質的な変化に全く気付くことができなかった。
歴史は繰り返す。韓国のいくつかの産業が肩を並べて競うほどになると日本も今は変わるところがない。即ち日本はないという式の日本、日本人論が流行している。
しかし、シンユハンが日本を野蛮な国と罵倒してから200年が過ぎ去って、同じくらい商品経済を背に負った「野蛮な国日本」が「文明国朝鮮」を併合したという事実を我々は絶対に忘れてはならないだろう。
半面、日本はあると叫んでいる人たちにはチョンタサンがでっち上げた一種の逸話が日本幻想症を覚ますいい薬になっただろう。
1711年チョウテオク(趙泰億)を正史として8次朝鮮通信使節が江戸(今の東京)に行った時のことだ。7次朝鮮通信使節(1682年)が江戸に行ったときにほんの儒生に過ぎなかった新井白石(1657~1725)がその年朝鮮通信使節の接待使に出世し彼らを迎えた。新井は正史チョウテオクらと筆談し合って江戸の内情を説明したという。
「今、徳川幕府は武士の跋扈(のさばること)を抑止し、儒学者が制度を一新しています」帰国した通信使達からこの話を伝え聞いたチョンタサンは「日本の国力を考えれば、朝鮮を再び100回でも侵略する力があるかどうか、日本が武を捨て、文に従うなら2度と再び朝鮮を侵略することはないだろう」と周囲に公言したという。
しかしチョンタサンの予測がまぎれもなく外れたことは、その200年後の歴史が証明している。
筆者はここでチョンタサンを親日派として見ようというのではない。チョンタサンのような当代第一の学者も日本の実情を正しく把握できず重大な判断ミスを犯していたことを指摘しているのだ。
日本の昔に行ってみよう。壬申倭乱の時朝鮮の地を初めて踏んだ毛利輝元(1553~1625)という武将は、星州陣営から故郷へ送った手紙に「とにかく、この国の広さや大きさが日本よりも広く大きいというが更に広く大きい」と書いた。これは一年以内に征伐せよと言う豊臣秀吉(1537~1598)の命を受けた毛利が攻め込んでも攻め込んでもきりがなくて、へたばった末に吐き出した言葉だろう。
我々も日本の人口や面積は考えもしないで、平面的な見方で比較してしまうところがある。正確に言えば日本列島は我が国より人口や面積は約2倍だ。当然我が国より人も多様で価値観も多様であるだろう。
このような多面的な観点から見るという感覚なしに日本を何度かちらっと見たり、日本人に何人か会ってみたりして日本をすべて理解したようなことを言う人々が多い。
だから、私たちは「日本はある、ない」というような単純な二者択一で日本を見ようとする間違いをしでかしてはだめだ。日本は「あるように見えることもあるし、ないように見えることもある蜃気楼」の様な存在だから
今から筆者は日本に関連した各種事例、事件、文献、記事等を分析し、日本はあると見えるのは彼らの建前のためであり、ないと見えるのは彼らの本音(内情、本心)のためだという事実を明らかにしていこう。
そして、我が国の人が日本や日本人の壁を簡単に感知することができないのは彼らの曖昧な国民性のためであるとともに、日本という国の特徴が「劇場国家」とよべる事実を究明するつもりだ。
彩のいのこのつぶやき
「日本はある、ない。」という文は直訳です。うまく訳せないのでそのままにしてしまいました。調べてみても自分の語学力では今一つはっきりとした答えが出ません。この1章の初めの1節を読むと、「日本はある。」という主張は日本を肯定的に見ていると思えます。一方「日本はない。」という主張は日本を重要視していないように思えます。皆さんが翻訳を読み進める中で考えていただけると有難いです。
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