翻訳 4 (1章―②)ある朝鮮通信使の日本観

翻訳

シンスクジュ(申叔舟)の遺言を学習できないキムソンイル、パクジョンヤン、そして…

世宗王年1419年、三軍都体察使イジョンムが対馬を征伐した後、朝鮮と日本の外交関係がしばらく断絶した。
その後に対馬太守宗貞守が倭寇の動きを謝罪し貿易再開を要請してくると、世宗25年である1443年に通信使節を再び日本に派遣した。
この時書状官として参加したシンスクジュ(1417~1475)は日本列島の情勢を明らかにし、外交慣例を集めた《海東諸国記》(成宗2年、1471年刊行)を残した。この本は朝鮮最初の本格的な日本研究書でもある。

後に、シンスクジュが病に倒れると9代君主成宗は彼の余命がそれほど残されていないことを見抜いて病に伏しているシンスクジュの家を訪ねた。
成宗が「後世に残す言葉はないか」と聞くと「倭国の情勢を鋭意注視し、倭国との友好を断ちませぬように」と念を入れて頼んだ。

それから約100年後、日本では豊臣秀吉が天下を統一した。豊臣は明国を討つつもりだから朝鮮は道案内しろと国書を対馬太守宗義智(よしとし)にゆだねた。しかし宗は朝鮮と貿易(交易)が断絶していることを配慮して国書を書き直し、新政権を祝う使節団を派遣するよう朝鮮に要請した。
宗の懇願を受け入れ、成宗は1590年7月ファンユンギル(黄允吉)を正史とし、キムソンイル(金誠一)を副使とする使節団100名余りを京都へ派遣した。
豊臣は朝鮮の使節が到着すると、日本に朝貢をささげに来た服属使と錯覚し、明国を討つもりだから道を退くよう尊大な態度で言った。

豊臣よりさらに錯覚した者は副使のキムソンイルだった。
西人(李朝時代の党派)ファンユンギルは朝鮮に戻り、「倭が必ず朝鮮を侵略するだろう」という内容の上奏文を挙げ、東人(西人に対立する党派)キムソンイルは「倭国は平和的だから攻め込んでくる兆しはない」という正反対の上奏文を挙げた。
筆者は、この事を我が国の歴史上初めて行われた「日本はある、ない」論争として上程する。

その後約300年過ぎた1881年、高宗はオユンジュン、パクジョンヤンなど12名で構成された辛巳遊覧団を日本に派遣した。
オユンジュンは帰ってきて、「まず開化した日本が朝鮮に虚勢を張ってくる可能性がある。」と報告した半面、パクジョンヤンは「日本が西洋と通行した後、富国強兵したように見えるが、外国に負った負債が多いために実際には、(そういうことは)別にない。」という正反対の報告書を奏上した。
これが歴史上2番目の「日本はある、ない」論争だ。

1990年代にも《日本はある》《日本はない》という本が出て、世間の人の注目を集めた。
その延長線上で「南方三国同盟(韓国、米国、日本)」を重視する論者達と「北方三国同盟(北韓、中国、ロシア)」を重視する論者達の言い争いが広まった。
つまり南方三国同盟の論者達の論拠は「日本はある」ということで、北方三国同盟の論者達の論拠は「日本はない」ということだ。
いわば、歴史上の3番目の「日本はある、ない」論争が広がったということだ。

 なぜ朝鮮時代の先賢達はもちろん21世紀を生きる現代人たちさえ板にくぎを打ち込むように「日本はある、ない」という論争を繰り返しているのか?それも400年以上。これは日本や日本人の正体、方向性を把握することがかなり難しいことに起因する問題だ。前にも言ったように日本人自身も「日本とは何か」を寝言のように反復しているではないか?

彩のいのこのつぶやき

この節でも、「日本はある、ない。」の記述があります。ここでは「ある。」「ない」は分かりやすいです。
「日本の侵略はある、ない。」と考えられます。

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