川端康成の「美しい日本と日本人」
日本の外では「日本丸」即ち日本という船が今どこに向かって航海しているか、たやすくねらいをつけることができない。そこで筆者は日本人自身が書いた日本人論でこの本の展開に必要ないくつかのキーワードを探し出してみた。
初めにノーベル文学賞を受賞した二人の日本人、川端康成(1899~1972)と大江健三郎(1935~)が行った授賞式記念講演を比べてみよう。
川端は「美しい日本の私(Japan,The beautiful And Myself )」という題で1968年12月12日スウェーデンアカデミーに於いて日本の審美性を強調した。
半面大江は1994年12月7日、川端が26年前踏んだ壇上に再び上がって「あいまいな日本の私 ( Japan,The Ambiguous And Myself )」という題で美しい日本と日本人の存在を否定し、あいまいな日本の現状を告発した。
川端はノーベル文学賞を授賞する場でなぜそんなに審美性を強調したのか
彼は鎌倉幕府初期の曹洞宗僧侶道元(1200~1253)の和歌「本来の面目」―春は花夏はほととぎす秋は月冬は雪―と華厳宗僧侶明恵(1173~1232)の詩(和歌のこと;訳者注)―雲を出でて我にともなう冬の月―を引用して、「雪、月、花」という言葉が日本の美を表現している基本の事象だと強調した。
そして日本の茶道の基本精神も「雪、月、花」にあると強調し、自身の作品《千羽鶴》、(千羽鶴は紙で折って作った鶴を糸に通して吊るしたもの。縁起が良いものといい寺や神社に捧げる風習がある。) は世俗化した茶道に憂慮の気持ちを込めていると紹介した。
また雪国越後で生まれた僧侶、良寛(1758~1831)が晩年に弟子に残した歌―春は花山ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり―を紹介し、日本に伝わる心情を披歴した。
そして芥川龍之介(1982~1927 35歳で自殺)、太宰治(1909~1948 39歳で自殺)の作品を引用しながら、自殺論を展開し、一休(1394~1481)という僧侶が宗教の荒廃に逆らい、人間の真の姿の確立(人間生命の本来の復活)を志向したと紹介した。
川端はこのように日本の自然、伝統、芸術、宗教などを難解だが、慎重に美しい言葉で説明し、聴衆に深い感銘を与えた。(朝日新聞、1968、12,13) しかし花鳥風月が日本の専売特許ではない。むしろ中国や我が国の影響を受けて日本の昔の詩(和歌)に花鳥風月がたびたび登場すると解釈する方がより適切だろう。だから「雪、月、花が日本の美を表現する基本精神」という川端の主張は一面そうでありながらも、一面そうではない側面を内包している。
川端は講演後半に茶道の美学を大成させた千利休(1522~1591)を例に上げ「切り出した花を茶室に挿してはだめだ。」という彼の有名な金言を紹介した。
千利休は「わび茶」即ち茶道具や礼法より簡素で静粛な境地を重視している茶道を完成させた16世紀の有名な茶人だ。今、日本の茶道界に君臨している表千家、裏千家の始祖でもある。
利休は織田信長(1534~1582)の「茶頭、茶の儀式を執行する人」を務めたが、豊臣が権力を掌握すると、彼の茶道の師匠として出世した。
豊臣が生前一番大事にした茶器は、井戸三十郎という人物が朝鮮から持ってきて献上した井戸茶碗、即ち朝鮮の安っぽいごはん茶碗だったという事実は有名な話だ。
しかし、豊臣が「黄金の茶室」を作るほど茶道を愛用したという理由だけで彼を「美しい日本人」と呼べるだろうか?
例えば、秀吉は2度朝鮮を侵略し、虐殺した朝鮮人の鼻や耳を切り取ったことはもちろん、全人口(当時の朝鮮の人口は800万~900万名)の約2パーセントに該当する15万から20万名を強制的に連行し、その一部を奴隷として売った。
今も京都に位置する豊国神社には、秀吉軍が南原城を陥落させた後、切っていった鼻を埋めた耳塚(実際には鼻塚)が残っていて、岡山県の千鼻神社には鼻塚が残っている。
それだけではない。豊臣は茶道の師、千利休が寺に木像を掲げておいたと、即ち自身の権威に挑戦したという理由で切腹を命じた。
晩年には、秀頼(1593~1615)という息子が生まれると後継者だった養子(姉の息子)秀次を幽閉し、自決を迫るほど性格が残虐だった。
豊臣が茶道や花見を楽しんだとしても彼を「美しい日本人」と呼ぶ事は出来ないように、日本人が花鳥風月を愛で、詩を作って雪や花、月を好んだとしても日本の国民性が美しいとは言えないだろう。
それは日本、日本人の一面でしかない。
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