翻訳14(2章―④A級戦犯容疑者達に勲章を授与したパクチョンヒ政権)

サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日)が発効されると、東京池袋にある巣鴨(刑務所)拘置所の管理と警備が8月23日付で日本側に移管された。
拘置所管理の責任が日本へ移行するや否や戦犯容疑者達が監房で酒場やマージャン場を開き始めた。しかし看守たちはかつての上官たちの乱れた行動に顔をそむけて見て見ぬふりをした。

 時が経つと管理はもっと心細くなっていった。
勝手に監獄を抜け出して、外出、外泊する戦犯もいたし、さらに外で酒場やパチンコ店を運営する者たちもいた。
これに憤慨したあるA級戦犯が月刊誌に実態を告発する文章を寄稿し、連合軍総司令部が日本政府に抗議したこともあった。
何よりも明らかな事実は講和条約発効とともに日本政府と右翼勢力が占領軍の動向を見ずに活動し始めたということだ。(保阪正康《昭和史七つの謎》、講談社、2004)。

戦犯たちが巣鴨拘置所を出所できるようになったのは衆議院が「戦争犯罪に因る受刑者赦免に関する決意」(1953年)を採択してからだ。
この決意を根拠としてA級戦犯たちは1956年まで、B,C級戦犯たちは1958年までにすべて釈放された。
拘置所管理がすでに1952年8月末に日本側に移管された事実を考えると、その後4~6年間は「拘置所」ではなく、「乱痴気騒ぎの様相を呈する場」であったことが推測される。

靖国神社に合祀されたA級戦犯14名の名簿

  名前      当時の職責及び罪名         刑量       備考
東条(條)英機  陸軍大将、陸上、総理大臣、太平洋戦争の主務者 絞首刑   1948,12,23 刑執行   
板垣征四郎   陸軍大将、関東軍参謀長、満州事変の首謀者   絞首刑   1948,12,23 刑執行 
土肥原賢二   陸軍大将、満州特務機関長、陸軍航空総監    絞首刑   1948,12,23 刑執行
木村兵太郎   陸軍大将、ビルマ方面軍司令官         絞首刑   1948,12,23 刑執行
松井石根    陸軍大将、上海方面軍司令官          絞首刑   1948,12,23 刑執行
武藤章     陸軍大将、陸軍省軍務局長           絞首刑   1948,12,23 刑執行
広田弘毅    総理大臣、外相、ソ連大使           絞首刑   1948,12,23 刑執行
平沼騏一郎   総理大臣、枢密院院長、         終身禁固刑 講和条約発効後慶応病院で病死
小磯國召    陸軍大将、総理大臣、朝鮮総督       終身禁固刑   講和条約発効前病死
白鳥敏夫    イタリア大使               終身禁固刑   講和条約発効前病死
梅津美治郎   陸軍大将、関東軍司令官、参謀総長     終身禁固刑   講和条約発効前病死
東郷茂徳    外相、ドイツ大使             禁固20年刑   講和条約発効前病死 
 ※丁酉の乱(秀吉の朝鮮出兵) 連行された陶工の末裔
松岡洋右    外相                           裁判中死亡
水野修身    陸軍元帥、軍令部総長                   裁判中死亡

     注;絞首刑7名、裁判中死亡2名、病死5名

戦犯裁判を受けているA級戦犯東條英機

靖国神社の復活運動も講和条約発効とともにこそこそ始まった。
靖国に奉安されたこれらの遺族の集まりである「日本遺族会」を主軸として、戦時のように靖国神社を国営化し、補修、維持を国家が責任を負うよう要求した。
日本遺族会の綱領は今も「200万英霊の慰労」と「800万遺族の団結」だ。
日本遺族会は自民党議員たちを動かし、1969年から1974年の間に5回にわたってそのような内容の神社法案を国会に提出した。
しかし憲法20条に規定されている政教分離原則に違反するという野党に強く反対され、結局神社法案はすべて廃棄された。

 靖国復活派達はまた講和条約発効されるとすぐA級戦犯たちを靖国に合祀するという運動を展開した。
日本政府も講和条約が発効されると、処刑、獄死した者たちを「平和条約(サンフランシスコ講和条約)第11条関係者」あるいは「法務死関係者」と呼び始めた。
連合国から独立すると、「戦争犯罪者」という用語をいち早く消し去った。
日本国会も1953年8月「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」を改訂し、戦犯として処刑、獄死した者たちを「公務死」即ち「公務遂行中死亡した者」として認定し、戦犯の遺族にも扶養金を支給することに決議した。

「恩給法」も改訂し、恩給を支給する期間に戦犯の拘束期間も含まれた。

これをもって日本国内には戦犯が消え、「昭和殉難者」だけが残された。靖国神社側も2005年6月公式声明を発表し援護法改訂を根拠として「受刑者は日本国内では、犯罪者としてみなされない。」と主張した。

 A級戦犯たちを秘密裏に靖国神社に合祀した人は、1978年7月、6代宮司として就任した松平永芳だ。 永芳は幕末、福井藩藩主松平慶永(1828~1890)の孫として戦時は海軍将校、敗戦後は自衛隊将校を経た人物だ。

松平は代表者会議(総大会)を開いて合祀同意を受けた上に、その年10月に開かれた例大祭(神社の最も重要な祭礼)を利用してA級戦犯14名の合祀手続きを秘密裏に踏んでしまった。
彼は1989年ある雑誌の対談で「東京裁判を否定しなければ、日本精神を復興させることができないため」だと合祀理由を明らかにした。
そしてA級戦犯の合祀事実が外部に知らされたのは次の年の4月だ。
全国がわっと覆ったが、すでにこぼれた水だった(ヒロヒト天皇は松平がA級戦犯を合祀させたという知らせを聞いて、「息子は父母の心がわからないようだ。」と言い、あまりにも不適当だったと言った。
松平の父慶民は敗戦直後、宮内大臣として昭和天皇を輔弼した人物だ。)

 A級戦犯の合祀を背後で推進した人物は日本船舶振興会理事長、笹川良一(1899~1995)だ。
ムッソリーニの熱烈な信奉者だった笹川は国粋党を結成し総裁を務めた心底右翼であった。
敗戦後連合軍総司令部が彼をA級戦犯として目星を付けると、楽隊を動員して騒がしい行進を始めて、巣鴨戦犯刑務所に入ったという逸話もある。彼は収監中に、ルーズベルト大統領、スターリン書記長、マッカーサー司令官に抗議の手紙を送ったが、戦犯担当の将校だった日系2世のアメリカ人中尉にひどい投打を受けたことで知れ渡った。

自称「巣鴨政治大学」を3年ぶりに卒業した笹川は1955年ボート競艇賭博を主宰する全国モーターボート競艇会連合会を発足させ、1962年には財団法人日本船舶振興会と改名した。
ボート競艇売上高の3.3%(年間約5000億ウォン)を自動的に取り込むのは「金の卵を産む鵞鳥」を手に入れたことになる。

 やがて、笹川は巣鴨刑務所の官房仲間だった児玉誉士夫とともに政界の黒幕として浮上した。
彼がA 戦犯たちの合祀運動を背後で操縦ずるようになったのは、豊富な資金力と自民党、右翼勢力、やくざ達と切れない因縁を結んでいたからだ。

 残念なことは、そんな笹川にパクチョンヒ政権が1976年9月勲一等修交勲章を授与したという事実だ。
笹川によれば、勲章授与式が終わった後、パクチョンヒ大統領の令嬢パックネ(前ハンナラ党総裁)氏とも40分間、対談したという。

 「私がパクチョンヒ大統領を儀礼訪問した時に、気品ある若い女性が玄関まで出迎えに出てきたが。
初め私は彼女が秘書だと錯覚した。
彼女は大統領の令嬢だった。
そこで、部屋に案内されて入っていくと彼女が入口側の椅子に座っているのを見て2回目の驚きだった。
韓国では、長幼の秩序が厳しいと聞いていたが、それを守っている大統領令嬢の姿が実に清純に見えた。
私はその女性と40分程度対談した。敬意と親近感のため、姉妹や娘に言葉をかけているような心持になった。」(笹川良一、《人類みな兄弟》講談社、1985)

パクチョンヒ政権はA級戦犯容疑者である児玉誉士夫にも1971年2月2等修交勲章を授与した。
幼い時7年間韓国に住み、ソンリン商業学校に通ったことで知られた児玉は中国で日本軍部の手先として働き、児玉機関を組織し、途方もない富を蓄積した。
児玉は敗戦後この金の一部を自由党結成に投げうって政界の黒幕として浮上した。
児玉がパクチョンヒ政権から2等修交勲章を受けられたのは、韓日国交正常化交渉時舞台裏の工作を助けたためだ。

 日本船舶振興会は笹川が死んだ後に三男洋平が受け継ぎ、「日本財団」に変わっていた。(正式名称ではなく、別名。曽野綾子会長の任期満了伴い、2005年7月洋平が理事長から会長に昇格した)。

チョンドゥファン大統領が白たん寺に蟄居させられていた時に洋平が白たん寺まで訪ねて、中曽根総理の慰労の親書を渡したというのはよく知られた事実だ。

 笹川とその息子洋平はまた韓国の大学や研究所等に奨学金や研究費の名目で莫大な金をばらまき、摩擦を引き起こしてきた(《時事ジャーナル》1993、9、16)。
 1987年高麗大学校人文社会系列大学院博士課程に100万ドル、豆満江開発国際会議を主宰してきた東北アジアフォーラムに対する研究補助並びに会議運用支援、延世大学奨学金支援事件…。

 参考に、パクチョンヒ大統領が10.26事件で死亡すると、日本の満州軍人脈は、「大日本帝国最後の軍人がなくなった。」と哀悼したという有名な逸話が残っている。

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