強者の論理と弱者の論理
本音と建て前を並外れて区別する日本人の国民性はベネディクトが言った「恥の文化」とも密接な関連がある。
唯一神が存在しない多神教の国日本では絶対的な価値観が存在しない。
したがって、時と場に応じて価値観と道徳基準がいつでも相対的に変わる。
いわば体面(世間体)が日本人の唯一の道徳基準だ。
即ち、世間が、周囲が、他人が自分をどう評価するかをいつも問いただしているだけだ。
したがって、体面が保てなければ、武士は腹を切り、百姓は膝まずいて謝る。
日本式仏教用語で方便(方便)という言葉がある。
元来、衆生を仏門に導くためにあらゆる方法で説得するということだ。
目的を達成するために手段や方法を選ばないことを意味する。
豊臣秀吉の茶道の先生で僧侶だった千利休は生前、放蕩な振る舞いをためらわなかった。
しかし、日本仏教界と茶道界は彼の行動が道を会得するための方便だと解釈した。
こうしてみれば、日本人の本音と建て前は便利な処世術の一種であり、体面を立てるための方便なのだろう。
日本の有名な国語辞典《広辞苑》には建て前を「表向きの方針」、本音を「本心から出る言葉、建て前を除く本当の心」と定義している。
本音にぴったり合う韓国語は胸の内(ソンネ)、内心と言えるが、建て前を表面的な方針などと原則的に翻訳することは少し無理がある。
むしろ、「内心」に対応する「外面的な心」と翻訳するのがより適切かもしれない。
また、本音を「内なる言葉」という意味で使用する時は、建て前を「空言」という意味で使うのがより適当であろう。
増原良彦か書いた《タテマエとホンネ》という本によれば、日本人が建て前を適用するのは「外(他人など利害関係が異なるグループ)」に対してであり、本音を適用するのは、「内(家族、同僚、自身が属している集団)」に対してだ。
しかし、外と内の範疇は時によって場合によって伸びたり縮んだりする。(講談社 現代新書 1984)
例を挙げると、日帝は内戦一体という美名のもとに韓国人を強制徴用し、多くの被害をあたえた。
そうしたのにサンフランシスコ講和条約が発効すると、朝鮮人は日本国籍を喪失したとして、何の保証もしなかった。
戦争前は朝鮮人を強制的に「内」の範疇に含めておいて、講和条約が発効されるや厳しく建て前を適用し、即ち日本国籍を喪失したという理由を入れて、朝鮮人を「外」の範疇へ追い出した。
日本人拉致被害者曽我ひとみさんの米国人の夫であり、米軍脱走兵であるチャールス.ロバート.ジェンキンス氏の事は正反対のいきさつだ。
日本政府はジェンキンスとその二人の娘のたった3人を連れてくるために、大型ジャンボジェット機を貸し切りでピョンヤンからジャカルタへ、ジャカルタから羽田へ乗せて飛ばした。
二人の娘は日本国籍を取得していたが、ジェンキンスは厳然と米国籍を持つ外国人だ。
それも脱走罪など4つの罪名で起訴中の大罪人だ。それでも日本政府は彼を無理に日本人の範疇、即ち「内」の範疇に入れジェンキンス一家の帰国に途方もない税金を使った。
厳密に言えば、ジェンキンスには「外の論理である」建て前が適用されることが妥当だ。
それでも日本政府は「内の論理」である本音を強引に適用してジェンキンスの日本入国費用と入院費用を全額負担した。
内と外を区別する日本人のものさしがゴムひものように思うが儘に伸びたと思ったら縮まるありさまを見せてくれるいい例だ。
増原の前出の本で、欧米の社会は敵と味方を峻別する社会だが日本は内と外を差別する社会だと定義した。
例えば、太平洋戦争前の軍部、特に関東軍の独走、中央部署間の極端な利己主義が内と外を差別する日本の「縦社会」が生んだ産物だ。
言葉を変えれば、国家、社会という大きい集団よりは自分が属する小さい集団か組織に忠誠をささげることが縦社会ということだ。
戦場で「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった末端の兵士たちは実は天皇陛下(外)のために死ぬのではなく、日ごろ顔を突き合わせていた小隊長(内)との義理と人情のために死ぬことを覚悟したのだ。(中根千枝、《タテ社会の人間関係》、講談社 現代新書 1993)。
そうであるなら、建て前と本音はだれが恩恵を受け、だれが損害を被る論理なのか。
増原は建て前が弱者に適用する論理で、本音は強者に適用する論理だと喝破する。
即ち弱者には建て前を適用し、厳格に判断するが、強者には本音を適用し有利なようにかばってやるのが通常の礼儀だ。
そのため、建て前は弱者がいつも損害を被る論理だ。
増原は、歌舞伎の古典「忠臣蔵」を例に挙げた。「忠臣蔵」は18世紀初期の江戸が舞台だ。
老臣、吉良上野介に「鮒(青二才)侍」と嘲弄された赤穂(兵庫県南西部地域)城主、浅野内匠頭が怒りを抑えることができず、吉良の首に切りつけ失敗する。
幕府の法度に背き、将軍の居所(江戸城内)で刀を引き抜いた浅野に切腹と領地没収という厳しい刑が下された。
大石内蔵助を中心とした赤穂の家臣達は2年余り臥薪嘗胆して復讐の機会をうかがい、1703年12月14日夜、吉良の屋敷を襲撃し、彼の首を切って復讐を遂げた。
赤穂武士47名は、江戸の品川泉岳寺にある主君の墓の前に吉良の首級をささげ、幕府の処分を待った。
巷では、赤穂武士47名を義士とほめたたえ、彼らを死なせてはならないという世論が沸き立った。
幕府内でも救命運動が起こった。
しかし、法度をむやみに変えられないという意見が優勢で、16歳の大石内蔵助の息子を含めた47名全員に切腹の命令が下った。
[正確に言うと、寺坂吉右衛門という武士が大事の後、姿を消したため、切腹したのは46名]
浅野が吉良を切ろうとした行為は、その当時では正当防衛に近いことだ。
吉良は大勢の人々が見守る中で、浅野を鮒侍(青二才)だと嘲弄した。
浅野は侍としての自尊心を大きく傷つけられたために反逆した者に復讐をすることは、当時の法度に外れることではない。
しかし、地方の小さな城主だった浅野には建て前が適用されて、切腹と領地没収という厳罰が下された反面、老臣吉良には本音が適用されて、処罰はおろか慰労の言葉が伝えられたというのが増原の解釈だ。
戦後補償問題を処理する方式も同じだ。弱者である韓国人には厳格に建て前を適用し補償要求を無視している反面、強者である日本人には本音を適用し手厚い補償と年金を支給している。
日本政府は現在、戦没者、戦傷兵、未帰還者、引揚者、被爆者等、戦争犠牲者に対して、恩給、年金、弔慰金、などの名目で毎年2兆円ほど支出している。
しかし関連5法令中、被爆者関連2法令を除外すれば支給対象を日本国籍保有者に限定している。
個人補償問題でも北韓を除いた国々とは戦争責任、賠償問題が完全に最終決定したために一切応じる事は出来ないという主張を繰り返しているだけだ。
しかし、ドイツが個人補償を中心に約7兆円以上を支出した反面、日本は補償、無償供与請求権方式で支出した金は約6500億円に届かない。
ドイツの10分の1水準だ。(朝日新聞1995 1.1)
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