小泉総理が就任後、靖国神社を6回ほど参拝し、物議を醸している。
もし総理の公式参拝が慣例として定着すれば、その次には天皇の公式参拝運動が起こるだろう。
そうなれば天皇と靖国を頂点とした戦前の超国家主義の体制がもう一度復活する。
言葉を変えれば総理と天皇の靖国公式参拝を慣例化する動きは神格化された天皇制復活、憲法改正、軍事大国化の動きとも密接な関連があるということだ。
そのため、この後の話の展開のために靖国神社の生成と復活の過程を詳しく探ってみよう。
大江志乃夫の本《靖国神社》(岩波書店、1984)によれば、日本人の靖国神社信仰は、伝来の土俗信仰だった御霊信仰から始まったということだ。
御霊信仰は「生前に恨みを抱いて死んだ人の霊魂が疫病をはじめとする災害をもたらすという恐怖心から霊魂の活動を鎮静させるために慰霊祭を行う」という信仰だ。
江戸幕府を滅ぼし1868年に登場した明治政府もこの慰霊信仰に立脚して明治維新前後の内乱で死んだ戦没者の霊魂を慰めるために明治2年(1870年)に今の靖国神社の場所に東京招魂社を建てた。
大江によれば、敵味方を問わず戦没者をともに慰労することが日本の古い伝統だった。
しかし明治政府は東京招魂社の慰労対象を「明治の殉難者」即ち天皇側で戦って死んだ戦没者に限定した。
哲学者梅原猛も月刊誌《世界》との対談で「靖国神社は日本の神道から大きく逸脱した。」と言い、次のようにその矛盾を指摘している。(《世界》2004、9月号)
「《古事記》(日本最古の歴史書、712年完成、全3巻)の神道を日本の伝統的な神道であると考えれば、古代日本人は天皇家の始祖である天照大御神(太陽の女神)を祀る伊勢神宮と天照大御神が征伐した人々を鎮魂する出雲神社を造り、出雲神社を伊勢神宮よりも大きく造った。
半面、会津(現福島県)地方には明治維新直前の内乱時死んだ薩摩藩の戦没者200名余りが埋葬された立派な墓地がある。
しかし数万名に上る会津藩戦没者たちは幕府側であったとして簡易な無名墓地に埋葬されている。
これは日本の伝統ではない。靖国神社も自分側のために死んだ人間を慰労しようという発想から出発した。
これは日本の伝統から大きく逸脱した神道だ。
伝統的な神道の観点から見れば、侵略のために犠牲となった韓国や中国の犠牲者を優先的に慰労するのが道理であり、日本人犠牲者は片側で静かに慰労するのが本当の姿だ。
《日本宗教事典》を見れば、明治維新当時には約17万の神社が乱立していた。
外国から伝播した仏教、道教、儒教などの影響を受けて仏像を祀る神社、朝鮮や中国から来た神を祀る神社、慰霊信仰系の神社、最初から生きている人を神として祀る神社等、形態は様々だ。
特に6世紀ごろ伝播した仏教の影響を受け、仏教に神道を加味した「神仏信仰」が形成された。
明治政府は神道国教化措置の最初の段階として、維新直後である1868年に神道と仏教を分離する命令を下した。
併せて、天皇の宗教的権威を高揚し、神道を基本とする国家体系を確立するため、全国17万か所の神社に公的性格を付与し、天皇の祖先である天照大御神を祀る伊勢神宮を全国神社の総本堂に指定した。
明治政府はまた神社神道を「国家の祭祀」として指定し、一般宗教と分離させ、特権的地位を付与するよう神道界の要請を受け入れて、1882年に国家神道を確立するに至った。
東京総本社が靖国神社と改称したのもこの頃だ。
即ち明治政府は内務省が管轄して来た他の神社と区別し、軍部が直接管理している総本社を1879年6月に靖国に改称した。
天皇家の祖先を祀る伊勢神宮に次ぐいわゆる「別格官幣社」という特別な地位を付与しようという意図があった。
大江が明らかに正したのは、靖国神社が国民統合の絶大な精神的支柱として発展したのは日露戦争以後だ。
日露戦争が終わった後、靖国には戦死した日本軍約8万8千名の名簿が慰労者名簿に登載された。
この数字は日清戦争の時の戦没者1万3千余名の6,7倍だ。
したがって、日露戦争で死亡した人の遺族が大挙、靖国を参拝することになった。
政府は各種学校、団体、職場に通告し、靖国神社に集団で参拝するよう強制した。
この過程において、戦地で死んでも、靖国に帰ってくるという靖国信仰が誕生することになった。
神風特攻隊員たちが死んだら蛍の光となって靖国神社に帰っていくという靖国信仰を固く信じて肉弾攻撃を敢行したことがいい例だ。
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