翻訳16(2章―⑥新しい追悼施設を造るという約束は空念仏)

小泉総理が韓日国交正常化40周年に当たり、ソウルで開かれた頂上会談の時、また再び「新しい追悼施設建設を検討する。」と明かした。
「また再び」という言葉を添えたのは、すでに2001年に金大中大統領に約束した事項だからだ。
しかし、それから5年の歳月が流れたが、新しい追悼施設を建設するどころか調査費も計上していないのが現実だ。
結論をあらかじめ言えば、日本政府が明かした「代替え追悼施設建設」の約束は実現可能性が全くない空念仏に過ぎない。

 金大中―小泉合意に従って福田康夫官房長官の私的諮問機関である「追悼、平和祈念のための記念碑等施設の方向を考える懇談会」(今井敬前経団連会長が代表)は、2002年12月、新しい追悼施設を建設することが望ましいという報告書を作成して提出した。
しかし、即刻自民党右派議員たちが靖国神社の存在意義を薄めるものだと猛烈に反対して出た。
例えば、麻生太郎総務相は「靖国で会おうという約束を固く信じて命をささげたのに、新しい追悼施設を建設するのは靖国をなくそうということではないか」と言って猛烈に反発した。

今井報告書が韓国と中国の目をくらますための単純な「習作ノート」という事実は、その後に出てきた日本政府の談話を見届ければ一目瞭然となる。
だから、今井等民間の有識者たちにことさら諮問を求めるようなふりをして胸を借りた後、福田官房長官が2004年1月にようやく日本政府の本音をさらけ出した。
「国民の支持がなければ解決できない問題であり、国民の理解が進展した時建設する問題なので、建設時期については今考えていない。」

 福田官房長官の後任である細田博之官房長官も2004年8月25日に開かれた記者会見で公明党が要求する追悼施設建設のための調査費のあらましの問題に対して「来年も予算内に調査費を計上する計画はない。」と明言した。
細田官房長官はその理由を「世論の動向を見極めなければならないため」と言い繕った。
世論の動向をずっと見届けてだけいれば、新しい追悼施設建設が始まるどころか、調査費も計上されないのだ。

自民党、公明党、民主党議員130名がアジア重視外交を掲げて2005年10月末「国立追悼施設を考える集会」(山﨑拓自民党前福総裁 会長)を作ったが、2006年度予算内に調査費を計上するよう財務省にいかなる圧力もかけなかった。
2006年6月にも無名勇士の墓である「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を拡充して靖国の代わりとする追悼施設として育成しようという案が提起されたが実現される可能性はゼロに近い。

 事実、靖国神社からA級戦犯を分離しようという案と新しい追悼施設を建設しようという案が出てきたのは、昨日、今日の話ではない。
中曽根が総理として戦後初めて終戦(敗戦)記念日である8月15日に合わせて、靖国神社を公式訪問するや韓国と中国から猛反発が起こった(1985年)。
後藤田正晴官房長官はその次の年の8月15日靖国問題に関する特別な談話を発表した。
重要な内容は、中曽根総理の公式訪問を今年から中止し、A級戦犯達が靖国に合祀されたことが公式参拝の躓きの石なるという事情を考慮して、総理が公式参拝しても支障ない環境を整備するということだった。

総理の立場で最初に靖国神社に参拝した中曽根

しかし中曽根内閣の分祀案は靖国神社の本殿はそのままにして境内に分殿を別に作ってA級戦犯を分離しようということに過ぎない。
中曽根自身も《諸君》2004年9月号対談でA級戦犯を慰労する分殿を靖国境内に設置しても差し支えないと主張した。
2行前に図表(「敗戦後歴代総理の靖国神社参拝状況」)後掲載

 相次いで、1999年8月、野中広務官房長官が靖国からA級戦犯を分離させ靖国を宗教法人から特殊法人に転換させる案を提示した。しかし靖国からA級戦犯を分離させる作業は神社側と遺族会、自民党右派の猛烈な反対に遭って、今まで一寸の進展もない。

 靖国側は2005年6月9日声明を発表して「我々は、歴史的、信仰上のすべての要因を勘案してA級戦犯14名の全遺族が賛成したとしても決して分祀要求に応じない」と分祀案を真っ向から拒否した。
靖国側はまたその前の年9月、山崎拓総理補佐官(当時の職)が総理だけではなく天皇が参拝できる環境を整備するため分祀させようと説得した。「天皇が参拝するのは歓迎するが、分祀には絶対に応じない。」と拒絶したことも知られている。

 参考として、中曽根総理時代、A級戦犯の分祀を推進するために、遺族の意思を打診してみたことがあった。絞首刑に処された7名のA級戦犯中6名の遺族は同意したが、東条英機の遺族たちは強硬に反対したという。

「敗戦後歴代総理の靖国神社参拝状況」(この前に挿入)

総 理  名     在  任  期  間                   参拝回数

東久迩 稔彦 1945,8,17~1945,10,9(54日)                 1回
幣原 喜重郎 1945,10,9~1946,5、22(226日)           2回
吉田 茂   1946,5,22~1947,5,2  1948、10,15~1949,2,1
     1949,2,16~1952、10、30 
1952,10,30~1954,1210(通算2616日) 3回
片山 哲   1947,5,24~1948,3,10(292日)                 無
芦田 均   1948,3,10~1948,1015(220日)                 無
鳩山 一郎  1954,12,10~1955,11,12
1954,11,12~1956,12,23(通算745日)              無
石橋 湛山  1956,12,23~1957,2,25(65日)                 無
岸 信介   1957,2,25~1960,7,19(1241日)                 2回
池田 勇人  1960,7,19~1964,11,9(1575日)                 5回
佐藤 栄作  1964,11,9~1972,7,7(2798日)                 11回
田中 角栄  1972,7,7~1974,12,9(886日)                  6回
三木 武夫  1974,12,9~1976,12,24(747日)                 3回
福田 赳夫  1976,12,24~1978,12,7(714日)                 4回
大平 正芳  1978,12,7~1980,6,12(554日)                 3回
鈴木 善幸  1980,7,17~1982,11,27(864日)                 8回
中曽根 康弘 1982,11,27~1987,11.6(1806日)                10回
竹下 登   1987,11,6~1989,6,3(576日)                  無
宇野 宗佑  1989,6,3~1989,8,10(69日)                   無
海部 俊樹  1989,8,10~1991,11,5(818日)                  無
宮沢 喜一  1991,11,5~1993,8,9(644日)                  無
細川 護熙  1993,8,9~1994,4,28(263日)                  無
羽田 孜   1994,4,28~1994,6,30(64日)                  無
村山 富市  1994,6,30~1996,1,11(561日)                  無
橋本龍太郎  1996,1,11~1998,7,30(932日)                 1回
小渕 恵三  1998,7,30~2000,4,5(616日)                  無
森 喜朗   2000,4,5~2001,4、26(387日)                  無
小泉 純一郎 2001,4、26~現在                          5回
注;敗戦後、15名の日本歴代総理達が春季例大祭(4月)と秋季例大祭(10月)を利用して60回にわたる靖国神社参拝を行った。個人の資格で8月15日参拝を初めて断行した総理は三木武夫(1075年)であり、公人資格で8月15日公式参拝を初めて断行したのは中曽根康弘(1985年)だった。

最近分祀案がまた再び定義されると東條英機の孫娘である東條由布子氏は、2005年6月5日フジテレビの討論番組に参席し、「絶対に分祀には応ずることができない。」とし、分祀案を全面的に拒否した。
極東国際軍事裁判で東条は公に「敗戦に対しての責任」を認めた。東條自身が直接敗戦の責任を認めても、後の孫たちが東條の戦争責任を否定する姿を見ると、昔も今も東條一家が問題だ。

 小泉総理も2005年7月、頂上会談が終わった後、ソウルで日本記者団に代替施設を「建設するかしないのかを含めて検討するということで、造るという話ではない。」とし、新しい追悼施設の良しあしがまだ白紙状態という点を強調した。
その上、彼は出発する前に「どんな代替施設を作っても、靖国の代わりにする施設はありえない。」とし、新しい追悼施設を建設しても靖国参拝を強行する意思を明かした。

 小泉総理は青瓦台で開かれた共同記者会見の時、短歌詩人ソンホヨン(孫戸妍、1923~2003、日本固有の短歌である和歌で日韓の友好と平和を願う心を表現した)氏の「真の願いが私には一つあって、争いのない国と国になれという」内容の短歌を紹介し、自分もそんな心で努力すると明言した。
しかし靖国参拝を強行し「争いのある国と国に」してしまった張本人が何をどう努力するというのだろう?

 A級戦犯を靖国から分離することは神社側と遺族たちの反対でできず、代替追悼施設の建設は国民世論が納得しなければ一体靖国という足かせはいつほどけるのだろう。
「国民世論が納得しなければならないなら」日本国民は今靖国参拝問題をどのように眺めているのだろうか?

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