本音と建て前というコード
この題目だけ見て、「またこの言葉か?」と眉間にしわを寄せる読者も多いだろう。
しかし、建て前と本音というこの二つの単語は「曖昧な日本」と「日本人の壁」を紐解いていくのに必ず必要な決定的なキーワードだ。
そのため、筆者がこの単語をこれから何百回強調しても行き過ぎではないだろう。
私たちが400年にわたって繰り返してきた誤判断は日本人たちの建て前と本音をはじめから知らなかったか混同した状態で始まったのだろう。
ルースベネディクトがすでに60年前に指摘した多くの矛盾も日本人の建て前と本音という独特の特性に由来している。
したがって、建て前と本音というキーワードを理解できなければ、日本と日本人の壁はもちろん、光速で変化する日本の終着駅がどこなのか推測してみることもできないだろう。
筆者も20年以上日本で生活しているが、まだ日本人の建て前と本音をきちんと区別できない。
日本で生まれ育った在日同胞もこの点では同じである。
「日本人といくら付き合っても分からないことの一つが建て前と本音だね。」とため息をつく在日同胞1世、2世達を筆者は数えきれないほど見てきた。
それはまるで自動車のギアを変えるように日本人が日常生活で「建て前コード」を「本音コード」に「本音コード」を「建て前コード」に自由自在に変速するためだ。
自動車が左旋回しようとすればハンドル左方向に、右旋回しようとすれば右方向に切り返さなければならないことは小さな子でも分かることだ。
しかし、日本人は2つのコードを回転させるとき、一定の原則をもってハンドルを切るわけではない。
それで、私たちは、日本人といくら付き合っても感をつかむことができないのだ。
あきれたことに日本人自身も相手の建て前と本音をきちんと区別できる人がまれであるのが事実だ
例えば関西の京都は女主人が出て、「お茶漬け(ご飯をお茶に入れて混ぜるもの)でもお出ししましょうか」と言えば、もうそろそろお帰りくださいということだ。
京都に遊びに行った関東の東京人はそんな事情も知らずにお茶漬けをしばらく待っていたが出てこないので、かっとなって帰ったという話は単に笑い話ではない。
また、道で久しぶりに会った親しい友人が「暇ができたら、家に遊びに来てください。」と言ったからと言って、知人の家へ突然訪ねる日本人はいない。儀礼上言ったお世辞(他人に愛嬌を振りまく言葉。相手を喜ばせようと必要以上に褒める言葉)であって、本当に家に訪ねてきてという話ではないためだ。
だから、日本人が表に現わす微笑や親切は、3度の食事のように習慣的なことで、決して本心ではないということだ。
「笑うふり」「親切にするふり」ということだ。「ふりをすること」が日本人の習性であると考えれば、はるかに話が速い。
そのことを区別できなければ、日本人はみな親切だとか優しいとかいうようなとんでもない旅行記を書きやすい。
歴史歪曲発言が止まることなく飛び出てくることも同じ理由とみることができる。
日本の政治家たちがわが国に向かっては「過去の出来事について反省した。」と言っておいて自国民には「韓半島統治は合法的であって、いいこともたくさんあった」というように話を変えた。
建て前、即ち表面的には過去を「反省するふり」をしながら、本音即ち内心は全く異なっている。
そんな人たちを日本では「口先男(口でだけ言い触らす者)」というが、日本の政治家たちはみなこの部類の人間と考えれば心は安らかだ。
特に日本人と歴史論争をしてみた人たちは訳が分からなくなるということだ。
初めて出会ったときは過去の歴史を理解するふりをしていた日本人がある日突然「我々だけが悪いわけではないんじゃない?」「自分がその時しでかしたことでもないのにどうしろと言うのだ?」というように、突然態度を変えて腹の中をさらけ出す場を経験したのだ。
前者が正に「戦後日本人の建て前」であり、後者が「戦後日本人の本音」だ。
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