2022-06

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「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳44 8章―② 2度目の韓流、朝鮮通信使の登場に押し寄せた「倭人の群れ」

 17世紀初めから19世紀にかけて徳川幕府は朝鮮の先進文化と文物を導入するために12回にわたる朝鮮通信使一行を受け入れて盛大に接待した。朝鮮通信使一行(500名前後)が対馬を経由して江戸を往来する間(概略で6か月から1年)25の藩が通信使...
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「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳44 8章 冬ソナの壁 繰り返されてきた韓流の歴史 500余名に達する朝鮮通信使一行は当時のヨン様達だった。

 通信使一行の宿所に群衆が雲のように集まって来て、無学無知な家来たちにも文字や絵を描いてくれとせがんでいる点で、その時の「群倭」(訳者注;朝鮮通信使、申維翰の「海遊録」に出てくる日本人の群衆をさす。)現象はつい最近の韓流ブームそのままだ。...
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「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳43 7章―⑤脱亜論の壁、一万円札の顔

 関川と山崎が「日本はアジアではない。」と主張したことは福沢諭吉の脱亜論的思考が至るところに残存しているという良い証拠だ。  福沢は《西洋事情》、《学問のすすめ》《文明論之概略》などの本を執筆した明治時代の有名な啓蒙思想家であり慶応...
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「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳42 7章ー④ 復讐犯人説と二重狙撃説の底意(伊藤博文の暗殺犯はだれか?;訳者注)

 そうであるなら、室田はなぜ伊藤の最後の肉声をまことしやかに整えて出したのだろうか?当時貴族院議員であった室田は伊藤の私的旅行である満州視察に同行するほど彼に信任されていた。政治の上で父のような存在の伊藤が目の前で倒れるや室田が受けた衝撃...
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