トム・クルーズが主演した映画「ラストサムライ」が2003年に公開されると大きな反響が起こった。
映画の舞台は明治維新直後に起こった西南戦争(1877年)だ。
アメリカ軍大尉出身の傭兵ネイドゥン‐アルグレン(トム・クルーズ)は、侍たちの反乱を鎮圧する官軍、即ち明治政府軍の訓練教官として招聘された。
日本に到着した彼は、反乱軍の侍たちに惹かれ、訓練教官職を捨て、反乱軍に加担する。結局明治政府軍と戦って、反乱軍指導者、勝本とともに壮烈な戦死を遂げることが大まかなあらすじだ。
この映画に反乱軍の指導者として出て来る勝本は、実は明治政府に抵抗し西南戦争を起こした西郷隆盛(1827~1877)をモデルにして作られたキャラクターだ。
「ラストサムライ」というタイトルも西南戦争に敗れて割腹自決した西郷隆盛を指している。
西郷はよく知られているように征韓論を真っ先に主張した人物だ。
そんな関係で西郷は韓国では、豊臣秀吉、伊藤博文に次ぐ「悪い日本人」のイメージとして映っている。
しかし日本では、二人といない「よい日本人」が即ち西郷だ。
例を挙げてみよう。
無教会主義を標榜した内村鑑三(1861~1930)は日本を広く世界に紹介するために《代表的日本人(Representative Men of Japan)》という本を1908年に英文で発刊した。内村はこの本で西郷を新日本の創設者として持ち上げ、最初の「代表的日本人」として紹介した。
天皇制復帰を叫んで割腹自殺した三島由紀夫(1925~1970)も生前に「西郷さん、明治の政治家中、今も「さん」をつけて呼んでいる人はあなた一人だけです。
あなたはたとえ反乱軍として死んだとしても大多数の日本人は、今もあなたを「代表的な日本人」として崇めています。」として、口がすっぱくなるほど褒め称えた。
西郷は今も世論調査で最上位圏に登場する「歴史的偉人」だ。
西南戦争で負けた西郷は結局「切腹」する伝統に従って自決した。
西郷に最後まで従った薩摩藩の4万余りの侍たちも同じ運命を招いた。
西郷の切腹の知らせをつかんだ当時の侍たちは「慶応(1865,4~1868、9、孝明.明治天皇朝の年号)の功臣が明治の逆賊になった。」とし、地団太を踏んだと言う。
西郷が自決した後にも、しばらくの間は彼が生きているという噂が途切れることはなかった。
代表的な出来事は、西郷がロシアに亡命しロシア皇帝とともに帰国するだろうという噂だった。
しかし政府軍が西郷の遺体を直接検視し、身体の特徴が一致したという結論を出すと、生存説は次第に沈静していったという。
西郷が死んでから12年が過ぎた後の1889年2月、明治政府は幕府軍を掃討した戊辰戦争(1867~1868)で、彼が建てた勲功を斟酌され、赦免例を下した。
正三位の官位も追叙された。
余談であるが、上野公園を訪れる韓国人たちが公園入口に立てられた西郷隆盛の銅像の前で記念撮影をする姿を時々見かけるが無駄なことだ。
銅像の顔が西郷本人とはどんな関係もないからだ、
現在伝えられている西郷の肖像画は死後6年がたった1883年にイタリアの銅板彫刻家エドワルド・キヨソネが、上半部は西郷の弟、従道(海軍大将、元帥、1843~1902)の顔、下半部はいとこである大山巌(1842~1916、日露戦争時の満州軍総司令官、元帥)の顔を参考にしてモンタージュ(組み合わせ)したものだ。
それであるから、1898年12月、上野公園で開かれた西郷の銅像の開幕式に参席した未亡人糸子が銅像を見上げて、「あら、顔が違うわ!」と叫ぶと、西郷の弟、従道が「大声を出さないで。」と口をふさいだという逸話がある。
西郷の実物写真や肖像画は彼が自決した後、一枚も発見されなかった。薩摩藩の秘密諜報隊長の任務を遂行したことがあって、彼が写真や肖像画を残すことを極力憚ったためである。
そのため今も「非常に特種な西郷の写真発掘」のような記事が時々新聞や雑誌の紙面を騒がしく飾る。
テレビ放送局でも最新映像技術を駆使して西郷の顔に絡み合う謎を追跡したが、今なお成果は特にない。
参考までに、丁酉の倭乱(文禄慶長の役)で、捕らえられて鹿児島地方に引っ張られていき、苗代川に定着した朝鮮人陶工たちの子孫たちも西南戦争時、西郷陣営に加担し、朴、車、金という朝鮮名で従軍した。
苗代川の朝鮮人陶工の後裔たちが日本式に名前を変えるのは明治維新以後だと知られている。戦争末期、東条と鈴木内閣の外務大臣を務めた東郷茂徳(1882~1950、A級戦犯として逮捕され禁固20年刑を宣告されたが病死)がちょうど苗代川出身だ。
彼は、朴氏の姓(パクピョンイ)を持つ朝鮮人陶工の後裔として知られている。
しかし、どういうわけか靖国神社の慰労者リストには、西郷隆盛の名前は目を洗って見てもない。
西郷と運命を共にした数多くの「ラストサムライ」達と朝鮮人陶工子孫たち名前ももちろんない。
靖国神社の慰労者リストに登載された戦没者は現在約246万6千名に及ぶ。明治維新前後に起こった内乱の戦没者、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争で死亡した軍人、軍属たちだ。
特に太平洋戦争で死亡した戦没者が213万名で圧倒的だ。A級戦犯14名とB,C級戦犯として処刑された1068名と獄死した人たちも現在、靖国に合祀されている。
前に述べたように明治政府は靖国の前身である東京総本社として建てられ、幕府軍戦死者たちは慰労対象から除外された。
彼我を区別しない伝統慰労の慣習を無視し敵軍と反乱軍を徹底して排除させた。
西郷もたとえ死後に赦免されたとしても、明治政府に反旗を挙げた反乱軍の首魁だった点で慰労対象から除外された。
しかし、明治政府を樹立させて、一番大きな功労者である西郷を門前で冷遇しながら、日本人だけでも推定300万名に近い犠牲を強いたA級戦犯達は「天皇に忠誠だった戦没者」として認められ慰労していることは、どこか辻褄が合わない論理だ。
それにA級戦犯達は、戦って死んだ本当の意味の戦死者ではない。
日本式の表現を借りても、彼らは戦争が終わってから死んだ「平和条約第11条関係者」「法務官関係者」「公務者」即ち公務遂行中死んだ者たちであるだけだ。
事情はこのようだが、朝日新聞の読者投稿欄に72歳になる老女の怒りの声が載った(「聲」2005、6,9)「私は靖国神社のA級戦犯合祀問題をどうしても納得できない。わたしの父は、昭和8年(1933年)に陸軍航空隊連隊創立記念日の祝賀飛行中に墜落して死亡した。しかし靖国周辺さえも行けなかった。戦死したのではないという理由からだ。A級戦犯も戦死したのではなく、戦争後まで生き残っていた者たちだ。それでも、なぜ靖国に奉安されているのか。今でも私は納得できない。」
ヒロヒト天皇も日本、ドイツ、イタリア3国同盟を推進した松岡洋右(A級戦犯、裁判途中死亡)外相、白鳥敏夫(A級戦犯、終身禁固刑)イタリア大使などが合祀されたという知らせを聞いて、非常にふさわしくないことだと言ったとして知られている。
彼らは軍人ではなく、民間人であり、戦死したのではなく病死したためだ。
2001年、国会で開かれた党首討論会で、当時社会民主党の土井たか子党首がA級戦犯たちをナチスドイツのヒットラーにたとえて、総理が靖国を公式参拝すれば、戦争責任があるA級戦犯たちの合祀問題ぶつかることになると攻撃すると、小泉総理はこのように反論した。
日本国民の感情としては、人が死ねば仏になる。
A級戦犯も、すでに死刑という刑罰を受けた。死んだ人をそのように選別する必要があるだろうか。
戦争で犠牲となった圧倒的多数に対する慰労を一握りのA級戦犯が合祀されているという理由でおろそかにするのはよいのだろうか?
死んだ人を選別する必要がなければ、幕府政権を倒して王政復古を断行した過程で、功績を残した西郷をなぜ今も靖国は顔を背けているのか?
彼が、死後明治政府から正式に赦免されているにもかかわらずだ。
正確に言えば。靖国神社は戦死、負傷兵死者、軍属、それに準ずる者、即ち軍人たちだけを祭神として祀る場所だろう。
空襲で死んだ数十万の民間人、広島や長崎の原爆犠牲者たちはまったく目を向けることもないのだ。
明らかにしてみれば、空襲や原爆で犠牲になった民間人も天皇や国家の命令に随って犠牲になったのではないのか?
これは、言下に明治、大正、昭和天皇に忠誠を誓い死んだ人の霊魂は無条件に受け入れて、天皇の権威に反対したり、挑戦したりして死んだ人はいくら功績が大きくても、足を踏み入れることはできないという靖国式偏向差別だ。
このような作為的身内差別は日本伝統の神道から大きく逸脱していることだと専門家も指摘しているではないか?
このように見ると、靖国は今も天皇を頂点とする、一つの特別な神社に間違いない。
東京都知事、石原慎太郎をはじめとする右翼勢力が敗戦60周年に当たり、アキヒト天皇の参拝運動を始めたことも靖国が天皇を頂点とする特別な神社といういい反証だ。
即ち天皇参拝派には靖国が東京都に登録された一宗教法人ではなく、今も「別格官弊社」のような存在という話だ。
参考として、ヒロヒト天皇はA:級戦犯の合祀事実が知らされた1979年から死ぬまで10年間一度も靖国神社を参拝しなかった。
アキヒト天皇も即位してから17年間になるが、まだ一度も靖国を訪れたことはない。
最近公開されたヒロヒト発言録に従えば、14名のA級戦犯たちが靖国に合祀されていて、論難を起こす素地が大きいためだ。
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