父の故郷が神風特攻隊の基地の近くであり、父のいとこが神風特攻隊として出撃し戦死したならば小泉総理の胸の中には今もぐらぐら煮え立つ憎悪の念を隠すのが道理だ。
しかし小泉は総理に就任した直後キャンプデービッド山荘でブッシュと初めて会った時、いとこの敵であった米軍を次のように褒め称えたという。(朝日新聞、2001、7,17)
「戦争に負けるとすぐ、日本国民はアメリカの奴隷になるだろうと分かった。
しかし、アメリカは寛大にしてくれ、食料も配給してくれ、むしろアメリカが我々を日本軍から解放してくれたという気持ちが強い。」
小泉総理はまた「アメリカは戦争後に占領した島(沖縄)を返してくれたが、ロシアは今も北方領土を返還していない。」と訴えながら、「アメリカがいるところに日本もいる。」と言うようにブッシュにお世辞を振りまいたと言う。
小泉は続いて、「米日関係がよくなればよくなるほど他国間も同調してよくなる。」という自身の「対米機軸外交路線」をブッシュに自慢げに説明した。
小泉総理が生まれた所は米海軍基地がある横須賀だ。
基地に行こうとすれば車で10分あれば十分な所として知られている。
幼い時からヤンキー文化をだれよりも早く、多く触れることができた環境だ。
彼は韓国植民統治、中国侵略に大きな影響を及ぼした脱亜論の提唱者福沢諭吉が創立した慶応大学経済学部を卒業した。
イギリスにも2年間留学した経験がある。
2004年1月《週刊ポスト》の報道によれば英国留学中に学位は一つも取得できなかったと言う。
「留学」ではなく「遊学」だったということだ。
このようにパズルのかけらを組み合わせてみれば小泉総理が福沢の脱亜論を模倣した「脱亜入美論」即ち、対米機軸外交路線をブッシュに自慢げに説明し米国占領軍を解放軍と呼んだ言論報道に頷かれる。
勿論歴代総理達も就任した際米国に行けば「日本は米国の援助のおかげで戦後再び起き上がることができた。」というようにお世辞を振りまくことが慣例だったという。
一つ例を挙げてみよう。
小渕恵三総理が1995年始めて訪米する直前に政治的大父(父のようにかわいがり育ててくれる大きな存在)であった竹下前総理から一本の電話がかかってきた。
竹下は小渕に「クリントン大統領に会ったら必ず日本が米国の援助のおかげで復興できたという言葉を落としてはいけない。」と忠告した。
しかし、小渕がクリントンの前で米占領軍を解放軍と呼んだという記録は残っていない。
父の故郷である知覧に行った時には、特攻隊展示館で涙を流した小泉総理。
伝統衣装である羽織袴を纏って靖国に行った時には神風特攻隊員として花と散った父のいとこだけでなくA級戦犯の冥福も一緒に祈った小泉総理。半面ブッシュの前では米国占領軍を解放軍として褒め称えた小泉総理。
横須賀米海軍基地の近くにある自宅では自分と誕生日(1月8日)が同じエルビスプレスリーの「ラブミーテンダー(Love me tender)」を熱唱しながら「ハイヌーン」(真昼の決闘)のようなハリウッド映画を見て成長した小泉総理。
実際に小泉総理は9,11テロ直後ブッシュに会って映画「ハイヌーン」で孤独な保安官役だったゲーリークーパーを例に挙げながら米国が「ハイヌーン」のような孤独な闘いを決してしないようにすると約束したという。
その約束は小泉政権が国内世論の反発を無視してイラクサマワ地域に重武装の自衛隊を派遣することで単純なうわべのあいさつの言葉ではなかったことが立証された。
「保安官」ブッシュも会うたびに(14回)忠誠を誓ってきた自分の助手小泉の最後の訪米を華やかに飾ってもてなした。(2006年6月末)ノムヒョン大統領や中国の胡錦涛主席にもしていない「ラブミーテンダー晩餐」即ちホワイトハウスでの公式晩さん会を催してくれ、小泉を大統領専用機「エアフォースワン」に乗せてグレイスランドエルビス記念館まで見学させてくれた。
エルビスのサングラスをかけてギターを弾く真似をする小泉が楽しがるとブッシュも「彼がエルビスを好きなことは知っていたが、これほどの事とは知らなかった。」と言い、ひどく驚いたという。
ワシントンポストはこんな二人の蜜月関係を「カウボーイ―侍式友情」と表現し、研究対象になる事例だと、くどくどと揶揄した。
米国に向かって「ラブミーテンダー」を詠唱しているときに、アジアではエルビスの別のヒットナンバー「冷たくしないで(Do not be cruel)」がリバイバルしている事実を小泉は知っているのかどうか。
小泉こそは「曖昧模糊とした代表的日本人」であるかもしれない。
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