第4章 歴史歪曲の壁 断章趣意(作者や全体の意に関係なくある部分を自己流に引用すること)あるいは体質的歴史歪曲
「聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻想だ。聖徳太子は夢だった。聖徳太子は古代日本が憧れた理想の人間像を文字で創り出した虚構だ。」 ―谷沢永一
4章―① 聖徳太子は存在しなかった
日本人であればだれでも聖徳太子(推定574~622)の「和をもって貴しと為す」という憲法第17条の最初の条文をすべて暗記するのだ。
聖徳太子は我々から言えば世宗大王に該当する日本の偉人だ。
それで一時1万円札と千円札紙幣に聖徳太子の肖像が印刷されてもいた。
《日本書紀》の記録を見れば、聖徳太子は「2歳の時、鎧を着て当時の実権を握っていた蘇我馬子(?~626、百済系豪族という説が有力だ)とともに政敵物部父子を殺害し、17歳の時推古(日本最初の女帝、在位期間592~628)天皇の摂政に推戴されて重要な政事を決定した。
また、一度に10人の訴訟を聞いてテキパキ裁決し、18歳の時、憲法17条を作った」という「超スーパーマン」だ。
また、現代日本語辞典《広辞苑》によれば、聖徳太子は「用明、(在位期間585~587)天皇の第2皇子で本名は厩戸だ。幼いころから内外の学問や仏教に精通した。
推古天皇が即位するとともに皇太子に推戴され、摂政政治を展開した。
また仏教信仰に力をいれ、多くの寺院を建立し、《三経義疎》(三経注釈書の総称)を執筆」した人物だ。
また、日本の歴史歪曲勢力が主導している「新しい歴史教科書をつくる会」(以下新しい歴史の会)が2005年8月に出版した《新しい歴史教科書》(市販用)には「太子は593年推古天皇の摂政となり、今までの朝鮮外交から大陸外交へ方針転換を指導した。
太子は607年隋に遣隋使を派遣した。この時『日出づる処の天子、日没する処の天子に書をいたす。』という内容の国書を隋の皇帝に送った。
遣隋使は隋にとっては朝貢使であったが、太子としては国書に二国の対等な立場を強調することで、決して服従しないという決意を表明したのだ。これがその後古代日本の(対中国外交の)基本姿勢になった。」と表記している。
この歴史教科書の母体と言える西尾幹二(前会長)が書いた《国民の歴史》でも「それまでの朝鮮外交から大胆にも大陸外交へと転換したことは、外交官としての太子の国際的センスの現れだ。」とし、聖徳太子を傑出した国際外交通として持ち上げている(扶桑社、1999)
しかし、書誌学者谷沢栄一(関西大学名誉教授)が発行した《聖徳太子はいなかった》と言う本によれば、聖徳太子は歴史上実存した人物ではなく、後世の日本人が捏造した架空の人物だ(新潮新書、2004)
「聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻想だ。聖徳太子は蜃気楼だ。聖徳太子は古代日本人の憧れる理想的な人間像を文字の上で創作した虚構だ。」(前出の本、212ページ)
谷沢によれば聖徳太子が虚構の人物だという事実は、すでに江戸時代以来聖徳太子を研究してきた学者たちの多くが指摘してきた。
例えば文化(1804~1818)7年以後に刊行された《大日本史》の<推古記>本文には聖徳太子の名前はなく、注釈で伝録などを取り上げているのみだ。
太子が登場する歴史文献は推古天皇の治世を記録した《日本書紀》第22巻で知られている。
この巻には太子が王世子として位に任ぜられてから臨終までの事績が記録されている。
しかし、ここにも聖徳太子と言う名前は一度も登場していないし、「厩戸皇子(母親が厩で産気づき生まれたことでつけられた名)」と言う名前で登場するだけだ。
8世紀初めに編纂された《日本書紀》の原本は現在存在していない。
当時の権勢家蘇我一門の勢力を失わせるように、蘇我一門が編纂に関与した《日本書紀》も燃やしてないものにしてしまって、その一部だけが残されているという説がある。
随って原本が筆写されて伝わり、一度に十人の訴訟を聞いて判決を下す全知全能の超スーパーマン、聖徳太子像が勝手に想像された可能性が大きいというのが谷沢の主張だ。
東京大学の神野志隆光教授も「9世紀以後講書(書物の内容を講義すること;訳者注)解釈を通じて《日本書紀》が『新しいテキスト』として変形され、《古事記》とともに一つの神話として改作されたもの」と説明している。
講書と言うのは9世紀初めから10世紀末まで10回施行された宮中の講読会を言う。(神野志隆光《古事記と日本書紀》、講談社現代新書、1999)
このような手法は戦後日本が憲法を拡大解釈する方法で自衛隊の海外派遣を実施した「解釈 改憲」手法とあまりにも似ている。
千年前の日本人と現在の日本人が少しも違うところがないという証明だ。
参考として、《古事記》にも太子の名前だけ登場するだけだ。
《古事記》も一番古い写本は1371年から1372年に筆写されたと見られる真福寺本で、18世紀末本居宣長(1730~1801)が研究資料として統合したことが伝えられている。
東北大学院文学研究所教授、佐藤弘夫は「記紀(《日本書紀》と《古事記》)に収録された神話は素朴な伝承をそのまま記録した物ではなく、編纂過程で人為的に加工されたという事実は今ではだれもが知っている常識だ。
テキストとして《日本書紀》の変貌はすでに平安時代初期に始まったという指摘もある。」と説明している。
また佐藤は聖徳太子の未来記(予言)を記録した石碑が鎌倉時代である1227年に発見されたと、歌人藤原定家(1162~1241)が自身の日記《明月記》に書いているが、未来記は中世に捏造された偽書だと指摘した。(《偽書の精神史》)
聖徳太子が実在しなかった架空の人物ならば日本人にはただ事ではない。
まず「日いずる処の天子、日没する処の天子」即ち、隋皇帝に国書を送った現在の歴史教科書の記述をすべて直さなければならない。
また聖徳太子が憲法第17条を制定し、「和為貴(和を以て貴しとなす)」を初めの条項として作成したという内容も削除しなければならない。
参考として《日本書紀》にも「厩戸皇子」が憲法第17条を制定したとあるが、施行したとはない。
谷沢によれば「和為貴」という言葉は《論語》の<学而第一>に出てくる言葉だ。
孔子の弟子である有若が「礼の用は和を尊重すること」だと言ったことが出典だ。
即ち礼とは社会生活の規範などを実践する時、和の精神を心の根本として行わなければならないということだ。
しかし、憲法第17条は礼用についての内容は切って捨て「和睦を大切にせよ」という部分を借用してすまし、聖徳太子が作ったかのように一般化したのだ。
谷沢によれば、このような恥知らずな行為は古代以来日本人が好んで使用してきた「断章趣意」手法だ。
即ち詩や文全体の意味を考えずに自分に必要な部分だけを抜き出して解釈し応用するのだ。
このような手法を広範囲に導入して、日本の学問と思想はその後独創的な方向にエンジンを切った。
違った言い方をすれば、歴史歪曲は断章趣意の手法のために勝手気ままに継承されてきたのである。
聖徳太子の実体について疑問を投げかける歴史家は谷沢が最初ではない。歴史家小林惠子(やすこ)は《聖徳太子の正体》(文芸春秋、1993)で聖徳太子は「アジアの草原を疾走した騎馬民族の突厥の英雄、達頭可汗」だと主張した。
小林はその根拠として「太子の住まいだった法隆寺夢殿が八角形の姿をしているが、その形が中央アジア遊牧民族の天幕であるパオと類似している点」を挙げた。
また、日本第一のおもちゃの会社の前社長山科誠は《日本書紀は独立宣言書だった》(角川書店、1996)という本で飛鳥時代の勢力家、蘇我馬子と聖徳太子は同一人物だという説を主張した。
聖徳太子の子孫が一人も残ってなく、皆殺しにされたという記録も彼の実在説に疑問を投げかけてくれる。
前出の《新しい歴史教科書》はこの部分をこのように記述している。
「聖徳太子の没後、蘇我氏一族の横暴はさらに酷くなった。その先頭に立った人は蘇我馬子の息子蝦夷だった。
彼は自分の息子すべてを皇子と呼ぶようにし、天皇の墓にのみ使う陵という呼称を自分の墓に名付けた。
蝦夷の息子入鹿は聖徳太子の理想を継承しようとしていた山背大兄皇子(聖徳太子の息子として皇位継承の有力な候補だったが蝦夷は別の皇子を天皇として即位させる。
643年入鹿部隊の攻撃を受けて寺で一族とともに自殺した)をはじめとする一族を一人も残さず死地に追い込んだ。」
参考に、《日本書紀》によれば、推古天皇は欽明(在位期間?~571)天皇の三女で、母は百済系の豪族である蘇我稲目(?~570)の娘だった。
聖徳太子の父の用明(在位期間585~587)天皇と推古は兄妹関係であった。
また当時の権勢家、蘇我馬子(稲目の息子)は推古(稲目の外孫娘)の叔父であり、聖徳太子の外祖父でもあった。こうしてみると、聖徳太子の家族は外戚に皆殺しにされたということだ。
聖徳太子をもう一つの名前である厩戸と表記している《日本書紀》は太子の息子山背大兄王が自殺してから80余年が過ぎた720年に編纂された。捏造説を主張する歴史家たちは当初から聖徳太子が架空人物だったために太子の子孫は全滅として処理するしかなかったのだと指摘した。
2005年の検定を通過した中学校歴史教科書8か所中2か所は文部科学省の指導要領にもかかわらず「聖徳太子」と「厩戸皇子」を一緒に表記している。
即ち、日本書籍は「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記した後、その次からは厩戸皇子として統一していて、教育出版は「聖徳太子」と表記した後、括弧でくくって厩戸皇子と表記している。これは2か所の教科書を執筆した歴史学者も聖徳太子の実在に疑問を持っている確実な証拠だ。
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