そうであるなら、室田はなぜ伊藤の最後の肉声をまことしやかに整えて出したのだろうか?
当時貴族院議員であった室田は伊藤の私的旅行である満州視察に同行するほど彼に信任されていた。
政治の上で父のような存在の伊藤が目の前で倒れるや室田が受けた衝撃は想像するに余りある。
そのため室田はもう一つの挿話を作り出した。
室田は伊藤暗殺事件直後担当検事として任命された溝渕に復讐説を提起した。
「私が目撃した狙撃犯は右手に拳銃をつかみ右足を前に突き出して体も前方に傾いていた。
私の外套の下の方に3発の貫通の痕跡があって、右の膝の部分に1発の貫通した痕跡があった。
左手の小指にも1発の弾痕があったがかすり傷だった。このような状況で見ると、公爵を狙撃した犯人は現場で逮捕された者ではなく別の者に違いない。
狙撃者が公爵を狙撃した後に別の拳銃にさっとすり替えたならば話は違うが。」
溝渕検事は室田の復讐犯人説を立証するためにハルピンの狙撃現場を数回訪問して検証作業に取り掛かったが、どんな手掛かりも探せなかった。また、室田を除いた別の証人が復讐犯人説を否認することによって溝渕は安重根が単独で狙撃したという結論を出し最終的に起訴状を作成した。
しかし室田は狙撃事件が起こった29年後に出版した回想録《室田義文翁譚》(1938)でも再び二重狙撃説を提起している。
「その時、小男(安重根義士の背の高さを伊藤と同じ163㎝と推定)はすでに兵隊の手につかまれていた。
事実伊藤を撃ったのは小男ではなかった。
駅2階の食堂から下に向かってフランスの騎兵銃で撃った者がいた。
その者が伊藤暗殺の真犯人だ。
なぜならば伊藤に当たった銃弾はフランス騎兵銃の弾丸だった。
第1弾は肩から胸部下部に、第2弾は右腕関節を貫通し臍をかすめて膝の下に、第3弾は右手、腕を通って腹部皮膚をかすめて行った。
とにかく右肩からはすかいに体の下に向かって負った傷口を見たが、このように撃つのはどんな方法も2階でなければ不可能だ。
即ち伊藤の負傷は上から下に向かってはすかいに発射した銃の3発を受けた傷口であるから断固としてロシア兵の足の間から拳銃を発射して負った傷口ではない。
特に小男は短銃を持っていたのであり、伊藤はフランス騎兵銃で負傷を負ったのだ。」
室田が根気強く提起した復讐犯人説、二重狙撃説は当時ロシアとの関係を憂慮した軍上層部に制止で、もうこれ以上拡散させないとした。
海野福寿も「騎兵銃の射手をロシア人と推定する根拠は希薄であり、当時は日ロ関係が好転している状況で大ロシア友好論者である伊藤をロシア政府が暗殺する理由もなかった。」とし、ロシア人暗殺加担説に懐疑的な視点を見せた。
室田の復讐犯人説、二重狙撃説は戦後にも大きな脚光を浴びた」。
平川紀一は<伊藤博文の暗殺をめぐって>(《工学院大学研究論叢》5号、1966)という論文で:8つの理由を挙げて「安重根が直接の殺害者だった可能性はほとんどないと言わざるを得ない。」と主張した。
即ち、安重根は約10歩の距離から発砲し伊藤に3発命中させて随行員たちを負傷させたが、拳銃の連続発射では不可能なことだ。
証拠として提出されたブローニング式7連発拳銃に弾丸が1発残っていたが、6発すべて発射したならば発射した数と被弾した数が一致してない。安重根は殺傷能力を高くしようと弾頭に十字を刻み付けたが、それは拳銃用ではなく、騎兵銃用だ。
弾丸の入射角度から見て高いところから3名が同時に狙撃したものだ。
安重根は伊藤の顔を知らなかったために長身の室田を小柄な伊藤と誤認した。
裁判過程で室田の重要な陳述が無視されたことは不自然だ。
現場を撮影したロシア人写真家のフィルムを日本政府が買い入れを拒否したことも疑わしい。
ロシア大蔵相が騎兵銃をもった朝鮮人3名が前の日の夜駅の近くを徘徊していたが逃げたと証言した等々疑問を提示した。
また上垣外憲一は《暗殺、伊藤博文》(ちくま新書、1984)で伊藤を戦争回避論者、列強との協調主義者として評価し韓国併合と中国侵略に強硬な姿勢を見せていた山縣有朋系列の長州藩主審陸軍派閥と右翼勢力が伊藤を暗殺するのに関与したという主張を提起した。
具体的に言えば、伊藤暗殺計画の発案者は右翼団体玄洋社の幹部であり、一進会顧問であった杉山杉丸だ。
杉山の計画を受けて暗殺計画を確立したのは当時朝鮮駐屯郡参謀長明石元二(後に朝鮮駐屯憲兵隊司令官)陸軍少将だ。杉山と明石は同じ故郷(福岡)出身だった。
伊藤暗殺計画は山縣の筆跡など間違いなく当時の陸軍大臣寺内正毅(初代朝鮮総督、1852~1919)に事件の承認を受けた事項だ。
下手人は間島に出ていた統監部派出所の朝鮮人憲兵補助員など憲兵補助員出身の巡査である可能性が大きい。
これが上垣外の結論だ。
ノンフィクション作家大野芳も同様に《伊藤博文暗殺事件》(新潮社、2003)で伊藤暗殺は韓国併合論者と大陸侵略論者の陰謀から始められたことだと主張した。
彼は杉山と明石の線よりは杉山と後藤新平(1857~1929)ラインにより重点を置いて暗殺の背景を掘り起こしている。
後藤は満州鉄道総裁を務め、満州の植民地経営に卓越した手腕を発揮し、伊藤暗殺当時日本国内で逓信相を務めていた。
しかし後藤の心と体はいつも満州に向かっていて、彼の野心は満州鉄道をもっと拡張し中国東北部を完全に支配することだった。
伊藤の満州視察を積極的に勧誘したのも後藤だった。
そんな後藤にとって大陸進出に漸進主義を標榜している伊藤は目の中のとげに等しかった。
大野の結論は杉山―後藤ラインが伊藤を満州に誘い出して暗殺し、暗殺実行犯グループは安重根に繋がる韓国人犯罪組織ということだ。
100年前の政治力学関係を分析して伊藤が暗殺された後恩恵を受けたグループを追跡する方法で伊藤暗殺の背景に再度照明を当てようとする動きは一見もっともらしく見える。
しかし、伊藤暗殺が朝鮮併合急進派と大陸侵略派のそそのかしによってほしいままにされたと主張する背景には「馬鹿な奴だ。」というエピソードのように伊藤を穏健派、漸進併合派、自治植民地派などとして浮き彫りにしようという計算が組み入れられているという事実を忘れてはならない。
また、日本の専門家たちが二重狙撃説と復讐犯人説を今も粘り強く提起している背後には安重根義士、烈士、志士ではなく、単純な不良の輩とか犯罪組織の下手人として格下げしようという陰謀が隠れている事実を知る必要がある。
もし、伊藤が安重根に暗殺されていなかったら1年後に韓国併合はしばらく後に延ばされただろうか?
とんでもない。
第2次桂内閣の首班であった桂太郎は1909年7月6日秘密裏に韓国併合を閣議決定した正にその日、明治天皇から裁可を受けて、極秘に併合計画の推進を開始した。
桂は閣議決定の前に、4月10日伊藤の意見を聞くために当時の外相、小村寿太郎(1855~1911)と共に赤坂霊南坂にある伊藤の枢密院議長官邸(伊藤は朝鮮統監を6月に辞任して6月14日から枢密院議長に任命されるが、その前から枢密院議長官舎を私邸のように使っていた)を訪ねて行った。
桂は伊藤が猛烈な反対をすると予想しながら用心深く韓国併合を説明した。
しかし、伊藤はたばこの煙を吹き出しながら「ほかに良い方法があるとは思わない。他に方法はないだろう。それでよい。」とさわやかに同意したという。
佐木隆三は《伊藤博文と安重根》で桂総理と小村外相がびっくりするほど伊藤は韓国併合案にどんな異議も差しはさまなかったと記述している。
韓国併合計画は伊藤が満州視察に発つ6か月前である4月10日の嶺南坂会合ですでに決定された事項だ。
そのために安重根が伊藤を暗殺することで韓国併合が早まったとか韓国併合派と大陸侵略派が伊藤暗殺を背後で操った式の解釈は「東洋平和の破壊者」だった伊藤を「東洋平和の使者」として美化しようという陰謀に近いだろう。
伊藤を狙撃した当時の安重根義士は伊藤がすでに6か月前に韓国併合計画に同意したという事実を知るすべがなかった。
もしそんな事実を知ったら安重根義士は伊藤が犯した16番目の罪状として「韓国併合に同意、黙認した罪」を列挙するに違いない。
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