関川と山崎が「日本はアジアではない。」と主張したことは福沢諭吉の脱亜論的思考が至るところに残存しているという良い証拠だ。
福沢は《西洋事情》、《学問のすすめ》《文明論之概略》などの本を執筆した明治時代の有名な啓蒙思想家であり慶応大学を設立し時事新報を創刊した教育者、言論人でもあった。
どんなふうに見ても同時代の政治家伊藤博文より高い評価を受けている人物だ。
伊藤の肖像は千円札にしばし登場して消えてしまったが、福沢の肖像は一万円札の顔としてロングランしているためだ。
福沢は朝鮮と因縁が深い人物だ。
彼が時事新報に書いた論説の三分の一以上、多く見ればおおよそ半分は朝鮮との関係を扱った内容だ。(杵淵信雄、《福沢諭吉と朝鮮》、彩流社、1997)。
金玉均、パクヨンヒョなど開化派を支援していて、よく言えば朝鮮を文明化し、悪く言えば日本化しようという底意を持っていた。
前者が福沢の建て前であり、後者が福沢の本音だった。
例えば福沢はいつも日本政府に、一足先に駐屯兵派遣、電信確保、鉄道建設、鉱山開発、借款提供など朝鮮の日本化施策を時事新報の論説を通じて提案した。
また、壬午の軍乱が起こると朝鮮に国務監察官を設置しろと主張したが、これが後で朝鮮統監、朝鮮総督として具体化された。
福沢は 初めは教育と新聞発行を通して朝鮮の文明化を支援しようとしたが、守旧派によって挫折すると朝鮮の政治改革に積極介入し、金玉均らが起こした甲申政変を背後で操った。
福沢の弟子で大事計画に深く介入した井上角五郎の述懐によれば、「甲申政変は福沢先生が作者にとどまらず、金玉均、金ヨンギョのような主役俳優を選び道具を準備して演出したことに相違ない。」と言う。
甲申政変が失敗すると論説を通して日本政府が積極的に朝鮮の内政改革に関与するよう主張し、中国との戦争は「文明と野蛮の戦争」だと主張して日清戦争の当為性(なすべきこと;訳者注)を煽った。
特に彼の論説中で今も論難(欠点を非難すること;訳者注)が終わらないのが正に「脱亜論」(時事新報、1885、3,16)の主張だ。
簡略して紹介すれば「日本はアジアの東方にあるといっても国民の精神はアジアを脱皮して西洋文明の方へ移ってしまった。
しかし不幸なことは近隣の国として一方がシナ(中国)であり、一方が朝鮮であるという事実だ。
この二つの国民が古来のアジア流政治、風俗によって養成されて来たことは日本国民と同じだが、人種が違うのかあるいは代々の教育が違うのかわからないがシナと朝鮮は近いけれど同時に日本とはかけ離れている。
そうならば、我々は近隣の開明を待ってアジアを起き上がらせる時間的猶予がないので、西洋の文明国と進退を共にしなければならない。
シナ、朝鮮のような悪友と付き合うものは共に悪名を振り払うことができないだろう。
我々は肝に銘じてアジア東方の悪友を立ち切らねばならない」という内容だ。
福沢は金玉均、パクヨンギョらをけしかけ起こした甲申政変が失敗に終わり、連累者が大部分処刑されると虚脱感に陥り、この脱亜論社説を執筆したことを知られるようになった。
福沢研究家である平山洋によればこの社説の掲載当時はどんな反応も問題がなかった。
戦後左翼学者たちが発見する時に有名税を利用した。
即ちアジアに対する日本の戦争責任を増幅させるために左翼陣営の学者達が1950年代からこの社説を問題にし始め、福沢を「アジア侵略主義者」として激しく非難したのだ。(《福沢諭吉の真実》、文春新書、2009)。
平山は1958年に岩波書店から発刊した《福沢諭吉全集》に福沢が直接書いてない文字が大量に収録されて「国権拡張論者」と言うイメージが増幅されたと主張した。
例えば、福沢の社説集《時事新報論集》に載せられた約1500編の社説中約700編は石河幹明(主筆を経た後、福沢全集と伝記を編集した人物、1859~1943)が執筆したというのだ。
平山の主張では石河は領土拡張、天皇崇拝、外国人蔑視、政治重視思想の持ち主として彼が全集を編集した1920~30年代は日本の大陸進出の動きが大きく高揚した時期だ。
随って、福沢を朝鮮併合と中国分割論の思想的先駆者として特徴づけて浮き彫りにするため彼の論説を好みに合わせて取捨選択し自身の論説を大幅に補完するというやり方で全集を勝手に編集したというのだ。
「平山説」をある程度受容したとしても福沢が「市民的自由主義者」であるか「侵略的絶対主義者」であるかについての論戦に終止符を打つことができる決定的な糸口ではない。
前に言ったように福沢の朝鮮政略目的が朝鮮の文明化をねらったというのだが、日本の右翼による政略だったという事実も疑う余地がないからだ。(杵淵信雄、《福沢諭吉と朝鮮》)。
勿論朝鮮を蚕食(徐々に侵略する;訳者注)しようとする簒奪者ではなく、朝鮮に関する理解者として福沢を評価しようとする日本の研究者も多い。
しかし、福沢の朝鮮に対する意識は初めから歪曲していたことは周知の事実だ。
例えば、彼は《文明論概略》第5巻に「養蚕と朝鮮の技術、繊維、耕作機器、医療.仏法書籍などは、あるいは朝鮮から伝えられ、あるいは自国で発明されて…」と記述していた。《家庭叢談》第48号(1877,2,4)には「古来日本が朝鮮と通じていた目的は文明を吸収しようとしたことであり、文字、儒学、仏教、医学、易法、工芸などが渡来し朝鮮は実に本朝(日本)文明の師匠であると言わねばなるまい。」と記している。
しかし、福沢は次のように朝鮮の文明と進歩をけなすという蛇足を付け加えている。
「古代の朝鮮は4つの国に分かれて弱小だったために今の日本が欧米文明を導入することと比較してはいけない。
朝鮮がシナ即ち中国に近かったために儒学や仏法、工芸が先だったが4つの国の弱小の様を考えると『重要ではない文明』だった。
また、豊臣秀吉の出兵時、明国の救援がなかったならば、滅亡していただろうと考えると、やはり『大したことがない進歩』だった。」
金玉均が1894年3月28日上海で刺客、ホンジョンウ(洪鐘宇)に暗殺された次の年、福沢が作成した「朝鮮人に対する貸金覚書」(1895,4,12)によれば、朝鮮人に貸して戻らなかった金は金玉均の物品購入費と留学生の費用などを合わせて1万5千円を超えた。
福沢は代理人を通じて交渉し、朝鮮政府から利子を抜いた元金だけ返してもらった。
福沢はこの時借用証書を保管していた弟子に送った感謝の手紙で「利子どころか、元金だけ受け取ったが、朝鮮人を絶対に相手にしてはだめだ。」と忠告した。
福沢はまたアメリカに亡命したパクヨンヒョが金を貸してくれと催促の手紙を送ると「朝鮮人のためにいろいろな方面で助けたが、お金の問題についてはとても疲れるほどだ。
彼らは貸してもらった金ともらった金とを区別することを知らず、返してくれる考えは夢にもない。
今年の夏から(朝鮮人に)貸した金がすでに4千5百円ほどになる。何の縁もない福沢の金を貸してやり、知らないふりをするのだからどうしたことか?」と言って、ため息をついた。
一方福沢は甲申政変後、玉泉に逃げて潜んでいた金玉均の家族を発見すると金玉均の夫人と娘を日本に招聘したが、婦人ユ氏が躊躇って成就できなかった。
東京広尾の別邸に部屋を二つ用意し待っていた福沢は失望したという。(《福沢諭吉と朝鮮》、231~237号)
平山によれば、福沢が設立した慶応大学出身研究者たちと福沢を、初め「市民的自由主義者」として評価した丸山真男(前東京大学教授、1914~1996)に追従する東京大学法学部出身研究者たちは「福沢にも侵略的側面はあったが、思想的核として見ない。
さらに、福沢の本当の目的は個人の自由と経済発展にあった。」と言うように福沢を擁護し味方していた。
半面、東京大学文学部と北海道大学(原文は北大学)の文学部、教育学部出身研究者たちは石河が編集した福沢全集を土台として福沢を侵略的絶対主義者と非難している。
違った言い方をすれば、福沢の建て前と前半期論説を重視する研究者は彼を「市民的自由主義者」あるいは「朝鮮文明化論者」とし、福沢の本音と後半期論説を重視する研究者は彼を「アジア侵略主義者」あるいは「朝鮮簒奪者」と評価している。
前者の評価手法は、伊藤の本音を黙殺し建て前的言行だけを集めて彼を東洋の平和の使者、朝鮮併合漸進論者、自治植民地論者として評価しようという動きとその手法は間違いなく似ている。
その点で「脱亜論の壁」は、「安重根と伊藤の壁」くらい高く堅固に「韓日友誼善作紹介(安重根義士が処刑されるひと月前、朝鮮語通訳圓木末喜に宛てて書いた揮毫。お互いがお互いをよく知る努力をしてこそ韓日間の友誼が始まるという意味で安重根義士が処刑される直前にも3分間の祈りを捧げ韓日両国民がお互い一致協力して平和を図ることを祈願した)」を妨げている壁だ。
「アジアは一つだ。」と叫んでアジア各国を侵略した日本は、敗戦後にもアメリカ、ヨーロッパとの貿易摩擦が激しくなるとアジア重視、アジア回帰、円共栄圏構築、脱美(アメリカ;訳者注)入亜のようなスローガンを叫んできた。
我々と自由貿易協定を締結しようとすることも日本経済が長期不況に陥ったためだ。
もし、日本経済が1980年代のように好況で勢いに乗っていたならやはり手を差し伸べただろうか?
かつて孫文(1866~1925)は日本人に向かって「東洋人か、西洋人かはっきりしなさい。」と声高に言ったことがあった。
即ち、孫文は亡くなる一年前である1924年11月、神戸で「大アジア主義」と言う題目で講演会を開き、「日本人は西洋の覇道を守る犬になるのか、東洋の王道を守る守成(跡を継いでさらに堅固にすること;訳者注)になるのか?」と聞いた。
今の日本人に再び「東洋人なのか西洋人なのかはっきりしなさい。」と聞いたならどんな答えが返ってくるだろうか?多分十中八九はまた再び「西洋の覇道を守る犬になるのだ。」と答えるだろう。
その根拠として中央大学の猪口孝教授らが2003年にアジア107カ国意識調査結果によれば、自分をアジア人だと考えている日本人は半分にもならない(42%)。
日本人がそんな脱亜論的発想と思考から抜け出さない限り、韓国、中国と日本との距離はなかなか狭まらないだろう。
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