通信使一行の宿所に群衆が雲のように集まって来て、無学無知な家来たちにも文字や絵を描いてくれとせがんでいる点で、その時の「群倭」(訳者注;朝鮮通信使、申維翰の「海遊録」に出てくる日本人の群衆をさす。)現象はつい最近の韓流ブームそのままだ。
8章―① 歴史上初めての韓流、古代日本で起こった「渡来人のブーム」
衆議院総選挙の日が公示された2005年8月30日、東京有楽町にある国際フォーラム会場周辺は早朝から女性たちが三々五々群れを成して集まってきた。
昼食時間が近づくと街の人波が3千余名に増えたが、夕方には再び倍に増えた。
雪だるまのように膨れ上がる人波の秩序を立て直そうと警察車輌が緊急出動し警備要員も500名が配置された。
退勤しようとした勤め人たちは通行できないほど道をぎっしりうずめた人波と出動した警察官を見て小泉総理の選挙遊説が始まったことが分かった。
しかし女性の人波が早朝から待っていた人物は小泉総理ではなく「ヨン様」ペヨンジュンだった。
この日、全国各地で集まった9千余名の女性の人波の中で300倍の難関を突破して入場券を手にした5千名は試写会場に入って、9か月ぶりに来日したヨン様と対面し涙を流して熱狂した。
入場券をもらえなかった4千余名も試写会が終わる夜10時ごろまで有楽町駅付近を去ろうとしなかった。
もしかして会が終わって出てきた「ヨン様」をせめて遠いしもの方からでも見ることができる幸運をつかめるかもしれないという期待からだった。
次の日のスポーツ新聞各紙は「有楽町暴動寸前」,「人波、人波、人波」などのタイトルで前日の国際フォーラム会場周辺で起こった「第3次ヨン様観覧劇」を詳細に報道した。ある演芸評論家は「むしろヨン様を日本の国会議員選挙に立候補させろ」と皮肉った。
次の日さいたまアリーナでも3万名が集まったイベントが開かれた。
ヤフーオークションでは1週間前に8千円の値だった入場券が375倍である3百万3千円に跳ね上がった。
イベント会場に入場できなかった3千名余りと設置された6か所の映像会場でイベントを見守った6千名余りを合わせれば、この日も4万名の女性ファンがヨン様観覧劇を演出し、あらゆる話題を振りまいた。
行事が終わると大阪から来たという88歳のハルモニは「もう死んでも思い残すことはない。」と言って感激の涙をぬぐった。
ヨン様の何がそんなに良いのかという質問に「すべて」という答えが返ってきた。50代の薬剤師リュウヨシエはペヨンジュンの到着を待つために会場近辺で一晩中ぶっ通して夜が明けた。
ペヨンジュンの写真がはりつけられたTシャツにハート形につくられたペヨンジュンのポスターを持っていたリュウは「彼はハンサムで、純粋で紳士だ。彼のような素敵な男性は日本にはいない。」と言った。
日本でヨン様観覧劇が起こり始めたのはペヨンジュンが4月3日初めて来日した時からだった。
ペヨンジュンが到着した羽田空港には開港以来史上最大の人波が押し寄せた。評論家は 時がたてばヨン様ブームは自然に廃れていくと予言してきた。
しかし3日間6万人をあまりの人波を呼び集めたヨン様の観覧劇が再現されるとそんな予測はあまりに性急だったことが露見した。
一連の韓流ブームは筆者が初めて日本に来た20年余り前だけとってみても想像もできなかったことだ。
今も、韓国ならばにおいも感じるのが嫌だという嫌韓派、蔑韓派がうごめいている国でなぜ「韓流ブーム」なのか?
産経新聞は「嫌韓、蔑韓感情は日本人の体の中に埋め込まれた抗体」だと表現するほどだ。
日本語に「宴のあと」という言葉がある。
宴が終われば大きな反動が後に来るという言葉だ。
現在の韓流ブームもいつまでも持続する保証はない。
こんなことが起こる前に我々は韓流ブームの正体と行方を冷静に分析してみなければならない。
それこそ起きるかもしれない反動を最小化することができるだろう。
筆者が推測するに、日本列島で韓流ブームが起こったのは大きく分けて歴史上3回だ。
古代日本の渡来人ブームと朝鮮通信使一行のお出まし、そして最近の韓流ブームだ。
文化水準が高かった韓半島から文化水準が低かった日本列島へ一方通行で流入した古代日本の韓流ブームは日本という国を興し基礎を固めた「建国のブーム」だった。
言うまでもなく古代日本は3国から渡ってきたヨン様達が支配し建国した国だった。
《日本書紀》と《古事記》の神話に登場する須佐之男命(日本皇室の始祖である天照大神の弟。
出雲に定着した新羅系というのが正説)、天日槍(新羅の王子),漢氏、秦人氏、高麗人のような渡来系豪族…。
日本の各種歴史教科書によれば、紀元前3~2世紀ごろから韓半島を媒介して大陸文化や渡来人(4~7世紀ごろ朝鮮、中国から渡って来て日本に定着した人たちを指す言葉。
敗戦以前には差別の意が入った帰化人と呼ばれた)が波のように日本列島に押し寄せてきた。
5世紀後半から6世紀初めには百済、新羅、高句麗人を中心に、技術や知識を持った職人を中心として渡来人が大挙して日本へ渡ってきた。
百済が滅亡した7世紀後半にも百済の家臣や民が千人単位の集団で日本に亡命してきた。
平安時代初期である815年に編纂された《新撰姓氏録》によれば、当時畿内(今の京都一円。当時畿内人口は約58万人)に住んでいた姓氏1182姓氏中3分の1である324姓氏が渡来人系だったという。
日本の古代期に渡ってきた渡来人の総人口がどの程度であったかについては学説がまちまちだが、植原和郎《日本人と日本文化の形成》によれば、弥生(BC4世紀~AD 3世紀ごろ)時代初期から奈良時代初期まで約千年にわたって総数150万人程度が渡来した。
また奈良時代初期の人口は血統で見ると北方系渡来人人口が8割またはそれ以上だったとし、土着日本人である縄文(BC1万年~BC4世紀ごろ)系が2割またはそれ以下だった。
植原の仮説は遺伝子のDNA分析と特定ウイルス感染に関する免疫学(면학)的研究、結核感染に関する人骨の古病理学的研究、個の血統に関する遺伝的調査等によって裏付けされている。(鬼頭宏《人口から読む日本の歴史》、講談社、2003、)。
縄文時代後期(BC3世紀ごろ)に日本全体の人口が約16万名、弥生時代(BC2世紀ごろ)には約683万名に急激に増えたことを見ると「想像以上に大陸の渡来人が流入して、彼らが倭の文化の基礎を作った。」という主張は疑う余地がない。
ヒロヒト天皇も1984年9月6日チョンドゥファン大統領訪日歓迎晩餐の辞で「紀元前6.7世紀の我が国国家形成時代には多数の貴国人が渡来し我が国の人たちに学問、文化、技術などを教えたという重要な事実があります。」と話したではなかったか?
古代の倭王たちも大部分が韓半島から渡ってきた渡来人やその後裔達だ。この部分については論難が入り乱れているために詳しいことは省略することにしよう。
例えば新しい歴史の会の前会長、西尾幹二は漫画《嫌韓流》の中で「外側が見えない気の毒な民族」というコラムで「日本は古代中国とインドを憧憬し敬い慕っていたが、9世紀から朝鮮半島に関する関心を喪失した。
騎馬民族説はすでに学問的に全く成立しないし、稲作は(韓半島ではなく)長江流域から渡って来た。
日本語と朝鮮語は系統が違う。」というふうに我々との因縁を全面否定している。
しかし古代日本の王室と百済王室と血縁関係で結ばれたことは動かせない歴史的事実だ。
その例として昭仁天皇は2001年12月「私自身桓武天皇(在位期間781~806)の生母が百済武寧王(在位期間501~523)の子孫であるために韓国との縁を感じる。」と記者会見で明らかにした。
8世紀末に編纂された《続日本紀》によれば、桓武天皇の生母である和氏夫人(日本式名前は高野新笠)は和乙継(やまとのおとつぐ)と言う百済王族の娘だった。
和乙継は百済武寧王の後裔で天皇家の重臣だった。
それで娘を白壁(光仁天皇709~781)の皇子に嫁がせることができた。二人の間に山部という皇子が生まれ後の桓武天皇として登極(即位)した。
一方、昭仁天皇の父のいとこの家系に当たる朝香宮家も2004年8月初め忠南(忠清南道;訳者注)公州にある武寧王陵を参拝した事実がわかり、日本の天皇家が百済とのつながりを探ることに大きな関心を持っていることをうかがい知ることができる。
日本語に「くだらない」という言葉がある。
この言葉は「百済(くだら)にないものは、くだらない。」という言葉に由来しているということは広く知られている事実だ。
これは古代日本が文化や文物を百済から一方的に受け入れていたという証拠だ。
現代日本人の8割以上が韓国から、あるいは韓国を経由して大陸から渡って来た渡来人の子孫だという学説を借りれば、冬ソナブームは日本人の体の中に刻み込まれている渡来人系の遺伝子が自分では知らずに感情が揺れて我々のドラマや歌にすっぽりと落ち込んでいくような生理現象であるかもしれない。
そうならば、現代の韓流ブームは「一時的な現象」ではなく、「持続的、反復的な現象」として定着することができる。
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