「短刀と弓」(日韓関係論)翻訳59 10章ー③もう一人の軍神、東郷平八郎の実像

 東海(日本海;訳者注)海戦勝利百周年に当たる2005年5月27日連合艦隊司令官だった東郷平八郎の旗艦、三笠の前で盛大な記念式が開かれた。東郷の孫である自衛艦隊司令部指揮通信計画幕僚である宏重は「歴史を大切に、ここはこのような行事が引き続き行われるよう望みます。」と祈願した。

 連合艦隊の旗艦三笠は東海(日本海)海戦勝利後、軍紀が欠けた水兵たちが甲板で酒盛りを開き火事を起こして焼失したのだ。
その後復元されて1926年から横須賀白浜海岸に繋がれて展示されてきた。
敗戦後には軍国主義の象徴という理由で民間に引き渡されダンスホールとして利用されてきた。
その後保存会が結成され三笠を買い戻し修理して現在に至っている。
これがイギリスで建造された1万5140tの軍艦(18ノット、30cm砲4門)の数奇な運命だ。

 ところで日露戦争の時、乃木希典が率いた陸軍総兵力は108万(18万の誤りか;訳者注)8千名、戦死者4万6千名、傷痍負傷者17万名であるとされている。
病気で死んだ者を合わせると全体死亡者は9万名余りに及ぶ。
半分は病気で死んだということだ。
特にビタミンBが不足して罹る脚気で死んだ人員が2万8千名以上だったという。
当時日本陸軍が戦争準備をどんなにおろそかにしていたかよく分かる。

 半面、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を殲滅させた連合艦隊の死者は116名、負傷者は570名余りにとどまった。
連合艦隊がなくした艦艇も水雷艇3隻だけだった。

 これに比べロシア側は戦艦6隻、巡洋艦5隻、駆逐艦4隻等19隻が撃沈され、5隻が拿捕された。
戦死者も4524名、捕虜が6168名に達した。
このような数字は東郷平八郎が率いた連合艦隊がT字戦法(丁字ともいう)で取り込んだ勝利がどれほど一方的だったかを雄弁に語ってくれる。 

 東郷は東海(日本海)海戦に勝利した功で2階級特進し伯爵に封爵されて、その後元帥に昇格した。
乃木のように東郷も事後軍神として推戴され、別に建てられた神社に祭神として奉安された。

乃木と同じように、軍神と無能な軍人という食い違った評価をうけている東郷平八郎

  昔の日本海軍参謀本部は東海(日本海))海戦関する詳細な記録を《極秘、明治37,38年日露海戦史》として作成し、一部は明治天皇にさし上げ、一部は海軍大学校に、一部は海軍軍令部に厳重に保管されて来たという。
この文書も敗戦後に公開されて軍神、東郷の実像がくまなく明らかにされている。

 作家、半藤一利は《極秘、日露海戦史》を引用し、東郷司令長官をはじめとする幕僚たちの東海(日本海海戦)を前にして右往左往した姿を次のように描写している。(《諸君》、2004、3月号)

 「対馬海峡で待ち伏せしていた東郷はロシアのバルチック艦隊の姿が見えないといらだつあまり対馬海峡ではなく、津軽海峡に出現する可能性が大きいと判断して5月4日午後『北方への移動を考慮すること』と書かれた命令書を第2艦隊に下達した。
命令書には25日午後3時には開封せよという指示も一緒に書かれていた。

 歴史にもしという仮定は通じないが、密封された命令書をもし開封していたら連合艦隊の戦略が2方向に割れて、夢のような完勝は遠く飛び去ってしまっただろう。
第2艦隊司令官島村と参謀長藤井の反対で東郷の命令書は結局開封されなかったが、後にもその事実は極秘として秘されてきた。

 その他にも魚雷爆発問題、東海(日本海)海戦の丁子戦法も必ずしも見事な戦術ではなかったなど海軍の多くの事実を隠蔽して神話を完成させた。
なぜ勝ったのか真剣に究明しないで「天祐神助(天の助け)」を強調して結局アメリカ軍と争う最後の瞬間まで東海(日本海)海戦勝利の栄光から脱却できなかった。

東海(日本海)海戦の最大の勝利要因は天佑神助(天や神の助けで思わぬ幸運に恵まれた)ではなく、連合艦隊の軍艦を作り上げた戦艦が最新鋭英国製軍艦(日本は日清戦争後、清国から受け取った賠償金で戦艦を購入した)だったおかげだ。」

 日本の史家たちによれば、東郷は連合艦隊司令官に任命される前からその能力は凡才という評価が多かった。
彼がイギリスとアメリカに留学したエリートだったというのは間違いない事実だが、特別に自慢できる戦功がなかったからだ。
そんな折、日清戦争が起こって当時海軍大佐だった東郷は巡洋艦浪速の艦長に任命された。
東郷は黄海で清国兵千二百名と大砲を積んだイギリス汽船を発見して撃沈させた。
その事実がイギリスに知られると、東郷が国際法を無視したとイギリス国民の世論が沸き立った。
結局、事件は無事に通り過ぎた。東郷は海軍大臣、山本権平(1852~1933)に厳重な警告を受けたことが知られている。

 《指揮官と参謀》(加来耕三、潮書房、1993)という本によれば、日本の国運をかけてロシアのバルチック艦隊に立ち向かう連合艦隊司令官として東郷が起用されると、海軍内部では「戦闘を始めようという瞬間に無能であるのは仕方がないが、凡才の烙印を押された東郷を司令官に任命した海軍はもう終わりだ。
明らかに薩摩出身のコネで抜擢されたことだろう。」とし、海軍首脳部を糾弾する声が高くなったという。
ちなみに、東郷を連合艦隊司令官に起用した海軍大臣、山本権兵衛も薩摩出身だった。
当時陸軍は長州藩出身、海軍は薩摩出身が掌握していた。

 凡才東郷を連合艦隊司令官に起用したところ、驚いた明治天皇が山本にその理由を問いただすと、「その男は運がいいです。したがって必ず勝利するでしょう。」と答えたという有名な逸話もある。

 東郷の晩年についての評価もよくない。
東郷は元帥に昇格した後、ロンドン海軍軍縮条約批准騒動が起こると、いわゆる「艦隊派」を指揮して「条約派」を攻撃した。
外交を全く知らない東郷が軍縮条約に介入して圧力を加えた老人の暴発に過ぎない。
東郷に従った艦隊派勢力がその後、太平洋戦争を起こして、日本が亡国の道を知らぬ間にたどったからだ。

 東郷の晩年についての評判も良くない。東郷は東京麹町一帯の土地を購入して間貸ししていたが、家賃をとても厳格に請求した。
反面、家の修理をしてやることもなく、庶民の評判はとても悪かったという。(《諸君》、2004、3月号)

  東京の繁華街、銀座にある「ようそろ(宜候)」というクラブは東郷を慕うひたむきなファンが集まる場所として有名な所だ。
このクラブに入れば、先ず東郷の大きな肖像画が目につく。
酔客が歌う歌も日本海海戦等昔の日本海軍軍歌が主流だ。
しかし、東郷は生前、酒をちょびちょび飲む体質で飲み屋では特別人気がなかったということを知っている常連はまれだ。

 軍神か、無能な軍人かという論争が終わらない中で文部科学省が1989年3月に告示した第4次小学校学習指導要領により、東郷は1992年から小学校で教えなければならない歴史上の人物として登場した。
2005年からは乃木希典も東京西部の小学校社会科教科書に歴史上の人物として登場した。
ちなみに文部科学省の学習指導要領は小学校社会科6学年が学ばなくてはならない国家、社会の発展大きな功績を残した代表的な人物として41名を例示している。
本書でも、その中で、古代人物として聖徳太子、中世の人物として豊臣秀吉、徳川家康、近世の人物として西郷隆盛、福沢諭吉、伊藤博文、東郷平八郎などを集中して扱っていることを付記しておく。

 扶桑社の歴史教科書の偏った記述と違い、東郷と乃木が歴史的人物として歴史教科書に登場したと言って我が国や中国が是非を言うのは徳のないことだ。 

しかし、敗戦後「軍国主義の象徴」という理由で痕跡を残している人物たちが再び「歴史上の人物」として復活しているという事実は昨今の軍国主義の復活と無関係ことではない。

そんな点で軍神たちの強制復活は川向こうの火事見物ではない。

 

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